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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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油断した、と月英は思った。
地元の者だと思い、ただ通りすぎようとしたのを急に斬りつけられたが、その刃先は月英の頬をかすかに触れ、また、髪を切り落としただけにすんだ。それに男は舌打ちをすると駆けて行った。急いで追いかけたが竹林に入られ、月英は諦めた。ひとりで深追いして敵に囲まれても困る。
 
考えごとをしながら馬に乗っていた。
父の許可が出たということはこれから劉備軍と行動をともにしていくことになる。
そうなると、自分は耐えられるのか不安になったのだ。
殿のことは尊敬している。孔明の役に立ちたいと思う気持ちはある。
けれど――。
この孔明への気持ちを捨てようと思っていたはずなのに、今こうして近くにいると想いは募る。
これから捨てるはずだった恋のぬけがらを大切に抱きしめて、愚かに生きていくのだろうか?
それに自分は耐えられるのだろうか?
ただひとりで抱えていく恋情に耐えられるのだろうか?
そんな不安に苛まれながら馬を走らせていた。きっと隙だらけだったのだろう。
だから、襲われた。
切られた頬がかすかにじんじん痛む。報いだと思った。
この騒乱の世。自分のことしか考えていなかった自分への報いだと。
 
 
馬を走らせる速度を上げて柴桑城に戻ると、部屋に孔明はいなかった。
少し安堵した息を洩らし、もう血がとまった頬を水で冷やし、バラバラになった毛先に触れて、小刀で長さをそろえようとした時、
 
「あぁ、戻っていたのですか。早かったですね」
 
と孔明の声がして、思わず小刀を落としそうになった。
この人は武人でもないのに気配を消すことがうまいと月英は思いながら、急いで小刀をしまい、髪をひとつに縛ると、頭を垂れる。
 
「今戻ったばかりです。殿はすべてを承知したと伝えてくれとのことでした」
「分かりました」
「諸葛亮さま、この柴桑城に戻る途中に地元の者に扮した男に襲われました。曹操の手の者かは確かめることはできませんでしたが、密偵かと思います。場所は――」
「――怪我はしませんでしたか?」
「えっ、はい。大丈夫です」
「では、顔を上げて髪を解いてください」
「えっ・・・」
「言うとおりに」
 
はい、と小さく答え孔明の言うに従う。視線を合わせないように顔を上げて、髪を解く。
じっ・・・と孔明の視線を感じ、月英はいたたまれない気持ちになる。
震えて小さく縮こまってしまいたくなるのを堪えて、しゃんと気持ちを立て直す。
 
「頬と髪を切られた以外に怪我は?」
「ありません。私の不注意です」
「しかし、顔に傷が残っては」
「構いません。女である前に武人として生きていきますゆえ気にしません」
 
改めて顔を上げて、今度は孔明と視線を合わせる。孔明も月英の目をじっと見た。
 
「私は大丈夫です。余計なご心配をおかけして申し訳ありません」
 
月英の声の固さに孔明は黙った。もう何も言ってくれるなと、声音がそう語っていた。
 
彼女は自分に好意を持っていることは明らかで、きっと劉備もそれに気付き縁談を持ちかけたのだろうが今は、どこかかたくななまでに自分を拒否しとうとしている。
 
――女である前に武人として生きていきます
 
月英の言葉を孔明は脳裏で繰り返す。



 
 ※



 
孫権軍と劉備軍は長江南岸、赤壁に布陣し、曹操軍の対峙する戦況となった。
長江に面する切り立った天然の岩壁――赤壁。
 
孔明は周瑜と長江を眺め、ずっと話し込んでいた。
月英は近くに控えながら、聞くともなしに、断片的に会話が洩れてくる。風向きの話をしているようだった。
 
ふたりが別れた後、月英は孔明に歩み寄る。
 
「私がさしでがましく口を挟むことではないのですが」
「何でしょう?」
「風向きは冬なのに急に蒸し暑くなった後に変わるそうです」
「それをどこで知ったのですか?」
「土地の漁民を話して聞きました」
「土地の者と・・・」
「ええ、冬なのに蒸し暑くなった後に風向きは変わると言ってました」
「蒸し暑く・・・」
 
孔明は月英の横顔を見つめた。
髪は切り揃えられ、その頬には薄れたが傷がまだかすかに残っている。
月英が自分の前に以前のように慌てる様子を見せることはなくなった。
けれど、近くで自分の警護にあたっているが、見えない壁を作り、距離を置いている。
彼女の中で何かがあったのだろう、孔明はそう思うことしかできなかった。
 
「月英殿、あなたから見て殿にたりないと思うものは何ですか?」
「殿・・・にですか?」
 
突然振られた問いに月英は困惑した。下唇に指の腹で触れて考えながらも、
 
「それは・・・領地かと思っております」
 
と答えると、それに孔明は頷き、そして、手でそっと近づくように招く。
月英はそれに戸惑いを感じたが、見つめてくる瞳に抗えないものを感じ、そっと孔明に近づく。
手を伸ばせばすぐに孔明を捕らえることができる距離まで近づくと、
 
「あなたには話しておきます」
 
そう言われ、月英の中に緊張が走る。孔明の低い声が鼓膜にいつもより近く色濃く届く。
 
「この赤壁は囮です」
「えっ?!」
「この赤壁を囮とし、江州をはじめ荊州の領地を奪取する予定で趙将軍らには動いてもらっております」
「そんなことを・・・。」
 
月英の驚きを受けて孔明はかすかに頷く。
 
――この人は・・・。
 
「もしや、それを足がかりに領地を広め・・・、いえ、まさか・・・」
「言ってみてください」
「――天下を3つに分けるおつもりなのですか?」
 
孔明からの否定はない。
その黒い瞳を月英は覗き込んだ。その瞳には満足気な気配さえ漂っている。
視線が交差すると、それに孔明がかすかに驚いたように黒目が揺れた。
 
「月英殿?」
「すばらしい策だと思います。けれど、どう言葉を選んでいいのか分かりませんが・・・」
「何でしょうか?」
「多く敵を作ることとなる策でもあります。殿の道を作り上げていく上で、何もかもひとりで背負いこもうとなさらないでください」
「えっ?」
「さしでがましいことですし、うまく言葉が見つからず申し訳ありません」
 
月英の瞳が言葉だけでなく何かを伝えようとするかのように揺らめいたが、すぐにさっと月英が一礼すると傍から離れる。
香などたいていないはずなのに、かぐわしい香りが髪から漂った。
 



 ※



月が赤い。
暗闇に異彩を放つその光を孔明は部屋の窓近くで榻に座りながら見つめた。
赤い月は不幸の前兆だとか、人を狂わせるなどと言うがそんな迷信じみたことを孔明は信じていない。
 
「多く敵を作ることとなる策でもあります。殿の道を作り上げていく上で、何もかもひとりで背負いこもうとなさらないでください」
 
痛い言葉だと思った。そして、やはり聡明な女であり、人を思いやる心を持っている。
師が男ならばと嘆いていたのも今は頷ける。
思わず口の端に笑みが浮かぶ。苦笑だ。
部屋の奥の衝立から物音がした。ふいに視線を物音のした方へと向ける。
月英は寝ているのか起きているのか。寝相が悪いのかよく何かにぶつかるような音をさせていることがある。それをうるさいと思うことはなかった。
 
 
 
 
 
 
月英はそっと我が身を抱きしめる。
どくどくと鳴る心臓の音を、たまらない不安な気持ちで聞く。
まだ起きてもいないことを心配するのもおかしいのかもしれないが、改めて考えると月英は不安に胸が震えた。
今はまだ細い細い綱を渡るような状態の劉備軍だ。
呉と同盟は結んだが、この赤壁での戦いが荊州を得るための囮だというのなら、呉をも敵にまわしかけない。
たしかに今、劉備に必要なのは領地だ。そのための孔明の策。
ぎゅっと胸が絞られるように痛んだ。
あの人は――。
これから受ける憎悪を受けて生きていこうとしているのではないだろうか?
敵を多く作るということはそれだけ命の危険も多い。殿のためには死など厭わないということなのだろうか?
そっと衝立に隠れながら孔明を見る。
孔明は月を見ていた。今宵の月は赤く、それが月英を不安にさせる。
けれど、孔明は月を凝視している。
それがどこか辛そうで頼りなさ気で月英は目が離せない。
けれど、それは一見不適に月を見上げているだけにしか見えない。なのに、月英にはとても辛そうに見えた。
 
「月英殿」
「へぇ?!」
 
月英の体はびくっと震え、間抜けな声が出てしまった。
急いで口を手で覆って、衝立に隠れる。見ていたことがばれたのだと思うと顔が熱くなった。
 
「顔を見せてくれませんか」
「へ?」
 
ちょっと待ってください、月英の慌てた声に孔明はかすかに笑う。
衝立の奥から聞こえる衣擦れの音。寝着だったらしい。しばらくして月英が着替えを終えて顔を出した。
 
「月をご覧になっていたのですか?」
「ええ」
「赤い月はなんだか恐ろしいです」
「そうですか」
 
月英がそっと近づき、窓枠に手を置く。孔明は月英の赤い髪越しに赤い月を見た。
しばらく無言のまま同じ月を眺めていたが、口を開いたのは孔明から。
 
「私は両親を亡くし、引き取られた叔父をも亡くしてから、弟妹を連れて流浪しました」
「――えっ?」
 
月英は急に振られた話題に驚いて振り返ると孔明と目が合った。
暗闇の中、赤い月によって煌々と照らされている孔明の顔に感情の色はない。
 
「荊州の隆中に腰を落ち着けるまで、帰る場所のないという不安を味わいました。殿も流浪の将などと揶揄されてますが、
奥方も幼い子供もいる身。年齢的にもそろそろ今、領地を得なければ、今後難しくなるでしょう」
「諸葛亮さまの帰る場所は、殿のいらっしゃる場所ということになるのでしょうか?」
「・・・そうですね。そうなるでしょう」
 
正直に羨ましいと月英は思った。孔明にここまで思われる劉備を。
 
「月英殿は、このままずっと殿にお仕えするおつもりですか?」
「父の許可が出ましたが、今は少し悩んでいます。殿はお仕えするに十分な立派な方だと思っております。尊敬もしております。
けれど・・・」
「けれど?」
「――・・・」
 
月英は一度唇を固く閉ざし、ゆっくりと瞬きをした。
 
「もう知られてしまっておりますので正直に申しますが、私が殿の元に参りましたのは、おろかな女の思慕からです。ただ一度諸葛亮さまと言葉を交わせればと思ったからなのです。それですべてを終わりにするつもりでしたから、殿に江東行きの同行を言い渡された時、驚きと戸惑いしかありませんでした。」
「――・・・」
「そんな不純な私情が動機で、でも、私などで何かお役に立てるのならあれば、利用できるのならば利用していただきたいと思っていますが、おそばにいると捨てるはずだった気持ちも捨てられず、ただ感情に流されそうになるのをいつまで堪えるきれるか不安になるのです。それに、諸葛亮さまは――」
 
ハッとしたように月英が口を手で覆い、言葉が途切れる。
 
「言ってることが支離滅裂で申し訳ありません。自分でも言ってることが分からなくなりました」
「私が何ですか?」
「何でもありません」
「月英殿、正直に言ってください」
「――・・・」
「月英殿」
「――これから策をめぐらしていく上で受ける憎悪をすべて一身に受けて生きていこうとしているのではないだろうか思い、それが心配で不安なのです」
「胸に痛い言葉ですね」
 
孔明が苦笑を洩らす。それを見て月英は不安を抑えるように胸を手で抑えた。
 
「月英殿、私はあなたが私情に流される人だとは思いません。むしろ抑制して自分を追い詰めてしまう人ではないかと思うのです」
「それは諸葛亮さまではないでしょうか?」
「私は、自らを追い詰めるのはなく逃げる方ですよ」
「そうは思えません」
「いや、そうですよ。私が妻帯していないのは逃げているからこそです」
「えっ?」
「隆中の前に他の地で一度暮らしたことがあります。そこで懇意になった女性がいたのですが、当時の私には生活の基盤が安定してなく、弟妹も幼かったため、彼女に待ってくれるようお願いし、彼女も分かってくれたのですが待たせている間に病で死にました」
「――・・・」
「両親に叔父、そして、朝佳――そういう名だったのですが、次々と失い、どうせ失うのなら妻などは必要ないと思うようになり、朝佳との思い出のある地から逃げるように隆中にたどり着いたのです。弟妹には迷惑をかけましたが」
「――・・・とても素敵な人だったのでしょうね」
 
朝佳さんのことが忘れないのですね、その言葉を月英はのみこむ。
瞼の奥が熱い。目尻が潤んでくる気配に月英は、孔明から顔をそらす。
 
「赤い月は人を惑わせるといいますが、今日の私は月に惑われているようだ。朝佳のことを人に話したのは初めてですよ」
 
自嘲気味の孔明に月英は、そっと涙を拭って振り返る。
 
「生涯妻を娶らないおつもりですか?」
「今のところは考えていません」
「それなら、領地を得たら、明るく丈夫で元気な方で病など縁がないような方を娶られればいい。殿にご家族や義兄弟がいるように、諸葛亮さまにも安息をもたらす人が必要です」
「明るく丈夫で元気な方ですか。あなたのような?」
「――ご冗談でもおやめください。武人は戦場でいつ命を落とすか分かりません」
 
月明かりが月英の白い輪郭の中で今にも泣きそうな月英の瞳を照らすが、月英はすぐにそれから顔を反らし、
 
「もう夜も更けてまいりましたので失礼します」
 
孔明の脇をすり抜ける。
 


「赤い月が人を惑わすというのは本当かもしれませんね」
 
月英の背に向かって、孔明は呟く。
 
――女である前に武人として生きていきます
 
いつかの月英の言葉を孔明は思い出す。
彼女はきっとその覚悟の上で、我らを支え生きていくのかもしれないと孔明は思った。
 
そして、ふと風がぬるい気がした。




 ※




風が舞う。
冬だというのに生ぬるくまとわりつくような風だ。
月英は馬で駆け、以前に長江のほとりで風のことを教えてくれた漁民を見つけ出し、確か東南風が吹くだろうという話を聞き孔明に伝えた。
孔明はそれに静かに頷き、軍議へと向かった。しばらくして戻ってくると静かな声音で、

「東南風が吹いたら時を移さず総攻撃します」

と告げた。
 
そして、月英は見た。
長江が緋色に染まるのを。
人が、刃が、矢が、炎が唸りも聞こえない激しさで飛び交うのを。
孫権軍と劉備軍による風向きを利した奇策である火計による攻撃に、曹操軍は逃げ惑い、ちじぢりに逃れていった。
勝利は素直に嬉しかった。
けれど、これは囮なのだと分かっている月英にとって胸に抱く不安に一歩近づいたことへとなる。
赤壁での戦いの後、その事後処理で孔明は忙しそうだった。
月英はその補佐を表面上はおだやかにするだけだ。
 


 
その知らせが届いた晩、孔明はふらりと部屋を出た。

月が、孔明の心のなかなど知らぬげに明るく、清く輝く夜だった。
部屋を出て、月が誘うがままに散歩して、長江が見える場所までたどりついた。
水面に月が輝いている。
あぁ、月が綺麗だ、と漆黒の夜空を仰ぎ――ちょうどその時。
 
「月が綺麗ですね」
 
と名に月を持つ彼女の声がして、振り返ると彼女が静かに近づいてきた。
 
「ええ」
「いらっしゃらなかったので探しました」
「よく寝ていたようなので声をかけませんでした」
 
そのあと、ふたりの間に言葉のひとつも浮かばない。
といっても、その沈黙は決して不快なものではなく、孔明を慕う月英にとっては心地よい程度の息苦しさをくれ、孔明にとっても妙になつかしいような安らぎを感じさせた。

月英の髪が風に揺れるのを孔明は見た。
風はまるで意図を持つかのようにささやかに月英の髪を揺らし続ける。

孔明の視線に気付いたのか月英もその控えめな瞼の下からそっと孔明を見るが、それは一秒もない間のことだった。月英はするりと孔明から視線をすべらせた。
視線が反らされた瞬間、孔明の手が伸び、月英の風に舞う髪の先に触れた。
それに月英は驚き、一歩孔明から離れる。
孔明はその手をすっとしまい、口の端に笑みを浮かべる。
孔明は月英に触れたいと頭より先に手が動いたことに苦笑した。
その苦笑を月英は不安なものと捉えたのか、その目のふちを心配そうに揺らす。
 
彼女は――・・・。

自分でも気付かないうちにそっと自分の胸のうちに入り込んできていた。
どんな状況にあっても、心の針に触れてくる想いがあれば、疼くものがあれば、出遭ってしまえば――・・・。

クッと喉の奥から笑いが洩れる。
 
「諸葛亮さま?」
「私は策を講じる人間ですが、今回ばかりは殿の策にはまったようです」
「えっ?」
 
紅い月は人を惑わす。
あの夜から、いや、きっとその前からあの紅い月に惑わされていたのかもしれない。
けれど、それは決して不快ではなかった。むしろ心地よさに酔えるぐらい。
感情を抑制することはいつしか慣れていた。いつしか感情というものを忘れてさえいた。
朝佳を亡くした後、いつか失うものならば最初から妻など必要ない、そう思った。
朝佳の後に心惹かれる女には巡り会わなかったということもあるが、そう思うことで自ら逃げていた。

けれど――・・・。

不思議と月英は、自分の胸のうちにそっと入り込んでいた。
自分の中にまだ女を想う気持ちが残っていたことに孔明は内心安堵さえ覚えた。
 
 
「殿が進む上で、避けえぬもの、恨み、憤り、そして犠牲。それらは私が一身に受け、殿には世を照らす月となっていただく―――そのつもりで私はおります」
「・・・はい」
「これから私は、人に恨まれ憎まれそんな人生になるかもしれません」
 
月英はそっと胸を手で抑える。
孔明は月英の月明かりにすける赤い髪、瞳の色、頬の色、ひとつひとつをたどるように見つめる。
凛とした美しさと清らかさを兼ね備え、その表情には強さも持っている。
 
「あなたは、そんな私のそばにいてくださいますか?」
「わ、私などでよければおそばで仕えさせていただきます」
 
あぁ、呟いて孔明は口の端に笑みを浮かべる。
とても聡明で人の心の内までも読み取るような人だというのに、こういうことに関しては婉曲的な言い方では通じないのか不思議そうに首を傾げて孔明を見上げる月英に、
 
「好きですよ、あなたが」







それに月英は、二度ほどゆっくり瞬きをして、えっ、と呟くと、ぽかんとした顔をしている。
 
「意味分かってますか?」
「えっ、あの・・・、」
 
それだけ言うと月英は、思考回路が止まってしまったかのようにただ立ちつくす。

そんな彼女に孔明はそっと近づく。
ほんの少し手を伸ばせば月英を腕に抱き取ることができる距離まで。
 
 
「好きですよ、あなたが」
 
 
再度、それを告げると月英の白い頬に朱に染まり、その頬を両手で覆いながら、
 
「なぜ、私などを・・・」
 
小さな小さな震える声で問いかけてくる。
 
「なぜと言われたら、ただ、あなたに理由なく恋しただけです」
 
月英はその答えに言葉なく俯き、それから、上目使いで孔明を見て、
 
「私も、好きです」
 
そう言うと孔明は、知ってます、とばかりに頬を揺らす。
その微笑に月英は、わずかに悔しさすら感じた。
うろたえるのはいつも自分ばかりだと。
それから、孔明はそっと月英の顔を隠そうとしている髪に触れて、その朱に染まった顔を見つめる。
孔明が髪に触れた時、月英は不安そうに目を揺らした。
 
「髪に触れられるのが嫌ですか?」
「あの・・・、この髪の色で、縁談を断られたことがあるので・・・」
「それは良かった」
「えっ?」
「断られなければ、今頃あなたは人の妻だ。私たちが出会うこともなかった」
「あっ・・・」
「私は、この髪色がとても好きです」
 
梳くように孔明は月英の髪の先まで触れて、そっと手を離すと、月英の頬を覆っている手に、自分のそれを
そっと重ねる。
 
「ずっと私のそばにいてください」
「な、長生きできるようにがんばります」
 
月英の答えるに孔明は喉を鳴らして笑う。
 
「不思議とあなたが私より先に死ぬ気がしません」
「・・・」
 
仮に――、と孔明は思う。
自分が先に死んだとしてもきっと彼女なら、自分の意思をついで生きていってくれるだろう。
 
どう反応すべきなのか月英は悩んだが、自分の瞳をのぞき込む孔明の黒い瞳に胸が疼いた。
この瞳だ。そう思った。
初めて会ったとき時から惹かれたこの黒い瞳。
心の奥まで見透かされてしまいそうな落ち着きをたっぷりと湛えるその憂いを秘めた黒曜石のような瞳。
この涼やかな落ち着きを宿した瞳。
初めて出会った時のように甘苦いものが、胸を突くほどのときめきを生んだ。
 
 
 
好きで、好きで、堪らない。

もうこの想いは、もう大きくしてはいけないと思っていたのに、更に肥大化する想い。
きっとずっともっとこの想いはふくらみ続けるのだろう。
 
 
「もっと強くなって、ずっとおそばにおります」
 
 
孔明が生きていく上でうける恨み、憤り、そして犠牲。
それらをともに受け、そして、この人を守り続けよう。そっと胸に誓う。
 
 
けれど。
今はもう・・・。
 
 
「もう限界です」
「えっ?」
 
月英はすっと孔明の手から逃れて、背を向ける。
 
「限界?」
「こ、こんな近くにいらっしゃると、もう、は、恥ずかしくて息ができなくなります」
 
後ろで孔明がどのような反応をしたのかは分からないが、笑った気配だけは感じられた。
悔しい、と思った。
 
 
「では、少し現実的な話をします」
「はい」
「明日、ここを出ます。夕方に、荊州の主要部を制圧したとの連絡がありました。その先に広がる益州を手に入れるため、西を目指していただくつもりです。私たちもそろそろ合流しなければなりません」
「分かりました」
「そろそろ部屋に戻りましょう」
 

ゆっくりと振り返ると孔明が月英に微笑んでいた。目線で誘われ、その隣で歩き出す。
 

「ところで、殿の策というのは何だったのですか?諸葛亮さまがはまったという」
「私とあなたを娶らせようとしたのですよ。」
「へぇ?!」
「その時は断りましたが、まずはあなたのことを知れといわれました」
「殿がそんなことを・・・」
「我が軍の誰かとあなたと縁づけたいとおしゃってましたので、趙将軍を私は勧めたのですが」
「趙将軍を?」
「趙将軍の方がよろしいですか?」
「―そうかもしれませんね」
 

慌てるのはいつも自分だけ。
そう思う悔しさから意地っ張りの矢を放ったつもりだが、孔明には届かなかったのか、ただ面白げに笑っているだけ。
それがまた悔しくて月英は俯いて頬を膨らませる。
その仕草が子供のようでそっと孔明は目を細め、それから、月明かりに照らされ、二人の影が地に映るのを見た。
影の中のふたりの距離はまだ少し遠い。


けれど確かに、今、彼女が隣にいる。それで充分だ。
 
”今”と呼べる時を、共に生きようと思える女とめぐりあえたのだ。
 
”今”という時間を重ねて生きていけばいい。
それがずっと続くように願いながら――。


 

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