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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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月英は工房で木を削りながら、尚香と中庭の池のほとりで話したことをぼんやりと思い返す。
 
「劉備様は私との子供を望んでくださらないの」
 
尚香はそう言った。
劉備は尚香を大切し、尚香も劉備を慕い、ふたりは想いあっているように思えた。そんな二人を月英は羨ましくも思っていた。
劉備が尚香との子供を望まないのは、政治的なことが関わっていることは明白で、尚香自身もそれは分かっているのだけれど、女としては納得できない部分もあるのだろう。
それに、劉備のひとり息子である阿斗にもほとんど会わせてくれないのだと嘆いた。
 
「私は兄の言いつけで嫁いだわけじゃないのよ。劉備様ならと思ったのよ!」
 
それなのに、妊娠しないように抱くの、とかそう言う尚香の愚痴に月英は言葉をなくした。
途中、尚香も月英には刺激が強いのだと気付いたのか、けれど、それに驚いたのか、えっと声を上げ、
 
「もしかして、あなた達、まだなの?劉備様から赤壁の折からだって聞いたのだけど」
 
結構長いわよね、と。
それに月英は曖昧に微笑むしか出来なかった。
それは最近、月英自身も思っていたことだから、胸が痛かった。
時折の逢瀬の時、抱きしめてくるその手にあやうさが含まれていることに気付いていないわけではない。
そのまま、想いのままに抱きしめてくれてもいいのに、そう思うこともあるのに、孔明はいつもそっと月英の手を離す。なだめるように頬や額に口付けて――。
けれど――月英は指の腹で唇に触れて――どうしてここへはしてくれないのだろうと。
 
そして、考えてしまうのだ。悪いほうへ。
死したかつての恋人のことを孔明はまだ想い続けているのではないかと。

 
 ※

 
「諸葛瑾殿が?」
「あくまで私人として、弟である私たちに会いに来るということですが、おそらくは荊州のことを心配してのことだと思われます。私が放っております者の報告でも、荊州のいたるところで、呉の間者と思われる人間をみかけるようです。」
 
劉備は居室で比較的軽装で、孔明を迎え入れた。
 
「兄は、我が軍との戦いを望んでおりませんから、荊州からの撤退の説得かと思われます」
「そうか。――孔明は、兄上と会うのは赤壁以来だな?」
「ええ。あの時もあまり顔を合わせることはありませんでしたが」
「そうか。――今はまだ、深く考えず、ただ久しぶりに会う兄上と兄弟の時間を持つがいい」
「殿?」
「兄とはどれくらい生活を共にしていたのだ?」
「私が10歳かそこらまでです」
「孔明は、両親と引き取られた叔父を亡くしてから、なぜ江東の兄の元へ行かなかったのだ?」
「――隆中に腰を落ち着ける前に、一度は江東へ行っておりますが、兄と会えなかっただけです。兄も私たちを探してくれたようですが、時代が時代でしたから」
 
劉備が、ほぉ、とため息を洩らす。
 
「こんな乱世でなければ、そなた達、兄弟も引き離されず、また、敵対することもなかったのだろうな」
「殿・・・」
 
孔明は、その劉備の言葉の中に、尚香とのことをも憂いているのだろうと思った。

 
 ※

 
その日。
馬超は孔明に呼ばれて、その執務室にいた。
内容自体は涼州に関することで簡単に短い時間で済んだが、その間にも孔明に決裁を求める文官などが現れたり、その机に置かれた山積みの書簡を見るだけで馬超は嫌になる。
内政等のことなど孔明が長けているのは傍目から見ているだけで十分に分かる。
短い期間に多くの事項と取りまとめ、実行し、国内に安定が生まれつつある。
実質劉備より忙しいのだろう。
そう思うと同時に、その脳裏に月英の少し寂しそうな顔が浮かぶ。
寂しいのを我慢して、そっと耐えている姿を見ると声をかけたくなる。
けれど、器用に慰められず、そんな自分に悔しくなる。
 
「どれがどれか分からなくならないのか?」
「なりますよ」
 
孔明の意外な返答に馬超は少し驚いた。
 
「片付けというものが私は苦手です」
「意外だな」
「そうですか?」
「ああ。こんなにやることばかりだと、あいつを――、あいつをかまう暇もないだろう」
「あいつ?」
 
机に向かっていた孔明が顔を上げて、しばらく黙ったまま馬超を見ていた。
その目に映る感情を読み取ろうとしても馬超にはできなかった。恋人をあいつ呼ばわりされての怒りなどは感じられず、ただ、黒い瞳を向けてくるだけだったが、ふっと視線を落とした。
 
「あまり月英殿をいじめないでください」
「別にいじめちゃいない」
「そうですか?絡まれると言ってましたよ」
 
ほんの一瞬、その唇に笑みを浮かべる孔明を馬超は見た。
 
「馬超殿が月英殿に気があるのは分かっています」
 
そう言う口調は静かで揺れがない。
馬超は、孔明を強く見つめた。孔明はそれを静かに受け止める。
何事もただ冷静に受け止め、揺らぎがないその姿勢に馬超は苛立つ。
 
「だからといって、私たちのことに口を挟んで欲しくない。仮に――」
「なんだよ」
「彼女があなたを選んだのなら別です。ごらんの通り私は、私事にまで手を出せない状態が続いている」
 
くっと馬超は唇をかみ締める。
そんなことはありえないという自信があるのか、それとも、そうなっても仕方がないとても言うのか、どちらだというのか全く孔明からは読み取ることができない。
なぜ彼女はこんな男がいいというのだ――馬超の苛立ちがつのる。
 
「じゃあ、彼女が――」
 
馬超が口を開いた時、「兄上、殿がお呼びですよ」と執務室に突然均が入ってきた。
おそらくその会話が聞こえていたであろうが、まったくそんなことは知らない振りで、均は馬超に少年のような笑顔でにこりとする。均にはこういうところがある。さすが孔明の弟なのだと周囲が言う聡明さを持ち、けれど、兄にはない人の良さそうな柔和な雰囲気があり、大人なのかと思うと急に、ほんの一瞬だけ、年齢よりも幼い様子を見せたりする。
それを劉備など周囲はとても可愛く思うらしく、孔明もそんな弟を頼りにもしている。
 
分かりました、と孔明は腰を上げるとすっと馬超の脇を通りすぎ、執務室から出て行く。
取り残された馬超も執務室を出ようとした時、
 
「本当にあの兄のどこかいいんですかね、月英殿は」
 
均は馬超に言うでもなくひとり言のような呟きを落とす。ふいに馬超は足を止め、均を見る。
均はそんな馬超に気付いているはずなのに気付いていないように、
 
「でも、まぁ、あの兄は月英殿に何もしてないようでいてもかなり気にしてはいますからね。結婚の許可を得るために、この成都に来る前に、私が何度も代理として月英殿の実家に行かされたものですよ」
 
あくまでひとり言だという風情で言うのだ。諸葛の人間は苦手だ、と馬超は思った。





 ※



夜。その部屋の前を通り過ぎようとした時、小さな悲鳴が聞こえた。
月英の工房だ。
一瞬悩んだが、馬超は戸を叩いてからそれを開くと、月英の手から血が流れているのが見えた。
 
「馬超殿?」
「悲鳴が聞こえたから。それよりその手は?」
「ちょっと考えごとしながら木削ってたから切ってしまって。大丈夫です。指をちょっと切っただけですし」
「大丈夫じゃないだろう。とりあえず、水で洗え」
 
井戸で水を汲んでくる、というと月英が自分で行くからいいと。
その彼女の後について、井戸で水を汲んでやると、彼女の手にそれを流す。
染みたのか月英は軽く眉を顰めた。
馬超は月英から目をそらし、その手の傷から流れる血を見て、そっとその手首を掴む。それに月英は驚いたように体をビクッとさせたが、
 
「なんだ、傷は浅いな」
 
馬超の言葉に、ただ傷を見る以外の意図はないと思ったのか安堵したようだった。
 
「ええ。すぐに血も止まりますから」
 
月英が馬超の手から手を引こうとしたので、思わず馬超は力を強めた。
 
「馬超殿?」
 
くそっ、と内心馬超は舌打ちした。
初めて触れた月英の手は思いのほか細くて、白くて、柔らかくて――離したくなくなる。
 
「うだうだ嫉妬しているよりは当たって砕けてみては?」
「彼女があなたを選んだのなら別です。ごらんの通り私は、私事にまで手を出せない状態が続いている」
 
趙雲と孔明の言葉を思い出し、唇を開こうとしたその時――・・・。
 
「月英殿?それに馬超殿ですか?」
 
と声がして馬超は思わず月英の手を離す。声の主は孔明の弟の均だった。
もしかして、均は――馬超は内心舌打ちする。
 
「均さま」
「こんばんは。あれ、手」
「ぼんやりしてたら切ってしまって」
「遅くまで作業しているからですよ。兄もそうですけど誰かに止められるまでやり続ける」
 
均は懐から手拭を取り出すと、月英の手を包む。
 
「兄の執務室に軟膏がありますから」
「そんな大げさですよ。お仕事の邪魔にもありますから」
「少しは邪魔してやってください。小難しい顔ばかりしていますから」
 
均の言葉に月英はくすりと笑う。
成都に初めて来た時、均は月英を見て、あっ、と小さく声を上げた。互いに顔は知っていた。
孔明はまだ隆中にいて、月英はその住まいの前をうろうろしていた時、何度か顔を合わせていたことがあったから月英は恥ずかしくなったが、均はどこか納得した風でさえあった。
孔明よりは小柄で顔立ちは似ているが、雰囲気などは江東の瑾の方に似ていると月英は思った。
均が来てから孔明の仕事の効率もあがったらしく処理能力が高いと評判だ。
 
「じゃあ、俺は」
 
馬超は、そう低い声で言うと、月英が礼を言う前に、踵を返してしまっていた。
 
 ※
 
振り返ると窓辺に注ぐ月明かりに照らされるように月英が窓枠に肘をつきながら眠っていた。
均が怪我をしてるから軟膏と塗ってやってくれと連れてきたとき、荊州を任せている関羽から書簡が届いていたことなど取り込んでいたので均に任せたままだったが、いつの間にか気をきかせたつもりなのか均も執務室を出て行っていた。
一息ついたところを振り返ると月英が寝ていたのだ。
そっと起こさないように近づき、その寝顔を覗き込む。さすがに寝顔を見るのは初めてだった。
自然と頬に笑みが浮かぶ。
柴桑城の一室で衝立越しに夜を共にしていたことを思い出す。
あまり寝相がよくないらしい彼女のたてる物音に、思わず笑ったこともあった。
しばらくその寝顔を見ていたが、月英の瞼がぴくりと動いて、ゆったりと開かれ、「へぇ!」と驚いた声を上げた彼女に孔明は喉を鳴らして笑った。
 
「寝起きに申し訳ありませんが」
「は、はい?」
 
恥ずかしいのだろうか月英が両手で自分の頬を覆う。
 
「近々、荊州より関平殿が戻ってきます。彼が戻る際に一緒に荊州に向かってください」
「へ?」
「孫呉は、我が軍の荊州からの撤退を訴えており、戦が起きる可能性が高いです。そのための視察を願いたい。そのついでに、一度父上に顔を見せてあげてください」
「えっ?」
「殿の許可は得てます」
「は、はい」
「あと、近々、江東より兄が来ますので紹介します。赤壁の折に会っておりますね」
「ええ」
 
ふっと月英の目元が緩み、微笑を浮かべる。それを孔明が不思議そうにしたので、
 
「ご兄弟、とても似ていらっしゃるものですから」
 
月英はそう答える。
 
「そうですか?」
「あと、妹さんがいらっしゃるんですよね?」
「ええ。もう嫁いでますが」
「似ていらっしゃるのですか?」
「妹は母が違いますので、その義母に似てます」
「私は兄弟がいないから、なんだか羨ましいです」
 
だからこそ月英の父は、この婚姻に反対なのだろう、と孔明は月英の言葉に複雑な思いがした。
現在やるべきことが多すぎて、直接彼女の実家に赴くことができない。幾度かまだ隆中にいた頃の均に行ってもらったが、返答はいつも同じだった。
均が成都に来る際に、月英の父からと持って来た文には「一度月英を家に戻すこと」と書かれていた。
 
孔明はそっとまだ頬を覆ったままだった月英の両手に自分のそれを重ねて、頬から離すと少し力を込めて握る。
 
この手を――。
この手を離すつもりなどない。
 
それに、あっ、と月英が声を上げる。見ると、切ったという傷口の部分を握ってしまっていたようだ。
 
「痛かったですか。すみません」
「いいえ」
「――馬超殿が一緒だったようですが・・・」
「切ったとき、声上げてしまって丁度部屋の前を通りかったらしいです」
「そうですか」
 
孔明は瞼をゆっくりと一度閉じてから、月英を見つめる。
彼女は――。彼女は馬超の気持ちに気付いているのだろうか?いや、多分。
 
「鈍そうですからね、あなたは」
「へぇ?」


 
江東より瑾が来た時、連れてきたその若者に孔明は一瞬言葉を失った。
その若者――王怜は、その孔明の驚きを静かに受け止め、
 
「お久しぶりです。ご立派になられて、姉が生きていたら、きっと喜んだことでしょう。」
 
感慨深そうにそっと目を細めた。
それに孔明は我に返ったのかそっと王怜に頷き、なにか遠いものの輪郭を捉えるためのように、ふわりと目を細める。王怜は瑾の下で働いていて、孔明のことを知っているということだったので連れて来たと言った。
 
少し離れたところにいた月英は、いつも冷静な孔明の驚きように、胸がぴくりと震えた。
そして、ただ彼の放った姉という言葉で感じとった――きっと死んだ朝佳の弟なのだと。
彼は整った顔立ちをしていた。とても美しく、女と見間違えるほどに。
漆黒の髪に瞳。
その姉だという朝佳はさぞ美しい人だったのだろう。
そう思うと月英の胸は震えた。視界の隅で揺れた自分の赤い髪がひどく忌まわしいもの感じられ、乱暴にかき上げて、そっと自分を落ち着かせるようにそっと胸をおさえる。
 
 



 ※


 
さすがに孔明の兄だな、と劉備は思った。
あくまで私人として弟たちに会いに来たとはいえど、その会話の節々に孫呉が、荊州を返還しなければ軍を進めるつもりであることを匂わせる発言をしたが、ただただ諸葛瑾は穏やかそうに立ち居振舞う。
顔色を読ませないのかが諸葛の人間なのだろうか。
話題を変えようと劉備が振った話に、
 
「孔明の子供の頃ですか?」
 
孔明は、隣で苦笑を洩らす。
 
「幼少期から弟は聡明でした。それ故に聞いてくることも難しく、父と共に困ることばかりでした。あとは、とてもやんちゃでした。今は落ち着いているようで安心しました」
「そうでしたか?」
「蛇や蛙を捕まえてきては侍女の部屋に放り込んだり、父に叱られた腹いせに、家を飛び出して丸1日は帰ってこなかったり、帰ってきたはいいものの、父の書簡を解体したり――」
「もう結構です、兄上」
「その顔はやったことを覚えているのだな?」
「多少は」
「では、伯家の――」
「それは本当にやめてください」
 
兄弟のやりとりに劉備は声を上げて笑う。月英も思わず、くすりと笑いを頬に浮かべた。
孔明の子供の頃など想像がつかない。月英はそう思った。
瑾は頬に笑みを浮かべながらも、
 
「けれど、体が弱かった。自分の体力を考えずに無茶をするのでハラハラしたものです」
 
月英に視線を向けた。

 
 ※

 
非公式の劉備との謁見を終えた瑾は、成都の孔明と均の暮らす屋敷を訪れており、そこで月英は改めて瑾に紹介されたその時、
 
「やはり孔明の妻になる人だったのですね」
 
瑾はそう言って嬉しそうに月英を眺めた。
月英は、柴桑城で瑾に孔明の妻ではないかと尋ねられた時のことを思い出した。
 
「孔明から文で知らされたのですが、その文が謎かけのようで」
「あれでも分かりやすく書いたつもりですが」
「兄をからかうところも昔から変わらない。孔明からの文はいつも暗号のようなのですよ」
 
兄弟のやり取りに自然と月英の頬に笑みが浮かぶ。
ともに暮らした期間は短く、均は瑾のことをあまり覚えていないと言っていたが、会えばすぐに打ち解けている。これが肉親なのだろう、そう思うと同時に月英の胸に浮かぶのは父母の顔。
親不孝としてしまっているとは分かっている。けれど、孔明の傍を離れたくない。
 
「先ほども言いましたが、孔明は自分の体力を考えずに無理をする。あまり丈夫ではなかったので、よくよく
監視してやってください」
 
瑾の言葉にかつての孔明の言葉を思い出す。
 
「殿が進む上で、避けえぬもの、恨み、憤り、そして犠牲。それらは私が一身に受け、殿には世を照らす月と
なっていただく―――そのつもりで私はおります」
 
その言葉の通りに孔明は突き進んでいる。
この混乱渦巻く世の中は、小さな争い、小さな戦をいくつもいくつもいくつも倦み、それがやがて大きな災い、
大きな悲劇を生み出している。
それをおさめようと孔明たちは、自分を犠牲にしている。
時には自分など忘れているのではないかと思うほどに――。
 
 




 
 
月明かりに照らされて、庭で孔明と王怜が話しているのを月英は見つけた。
夜遅くなった為、泊まっていくように言われたが、気分が乗らなかった。
孔明が自分を王怜にどう話したのだろうか?いや、話しているのだろうか?
時折、笑い声さえも聞こえてくる。
何を話しているのだろうか。朝佳のことだろうか。
どのような女性だったのだろうか。孔明が惹かれたという女性は――。
悪い方へ悪い方へ考えて、不安で頭がぐるぐるする。
そして、そんな自分に嫌になる。孔明を信じてはいる――なのに・・・。
もうひとりの私が、私を煽る。
私の中の別の私が煽ってゆく。不安、嫉妬、苦しみに苛まれて、息苦しくなってゆく――。
月英は、苦しくなる胸を抑えるように深呼吸をする。
それから逃れるようにそっと踵を返した時、その目に馬良が早足で近づいてくるのが映った。
月英に「急用で」と口早に言うと、月英の脇をすり抜けて孔明へと近づく。
見ると孔明が王怜と「失礼」と言うとその傍を離れ人気のないところへと向かう。
残された王怜はゆっくりと振り返ると月英に気付いたのか、にこりと微笑むと近づいてきた。
 
「月英殿ですね?」
「あっ、はい」
 
急いで礼をとる月英を王怜は、じっと足元から頭の先まで凝視する。
その視線に値踏みされているような居心地の悪さを感じ、月英は戸惑う。
 
「姉とは似ていませんね」
「えっ?」
「孔明から聞いていないのですか、私の姉のことを」
 
王怜の口ぶりがどこかわざとらしいぐらいの驚きを含んでいるようで、それにどこか違和感を感じ、月英はこの男の真意を見出したいと彼にまっすぐに視線を向ける。
 
「朝佳さんのことでしたら、以前に少し聞いております」
「少しですか。そうですか。その程度ですか」
 
月英の視線に応じるように王怜はまっすぐに目を当てつつ、そっとその口の端に笑いを滲ます。
まるで試されているような、けれど、この男は月英の知りたいことをすべて知っているのだと思うと、悔しささえ感じられる。
 
「我が一族は学者の家系でして、江東に兄を探して孔明が来た時に、わが父の門をたたき、弟妹を連れて住み込みで下働きをしながら、父の教えを乞うていたのです」
「えっ?」
「知りたいという顔をしてますよ」
 
咄嗟に月英は、両手で頬を覆うと、王怜から視線をそらすように俯く。王怜が軽く笑ったのが分かった。
 
「そこで姉と恋仲になり、父も孔明のあの聡明さをかってましたのですが姉が急死してしまいまして、
本当に残念なことです」
「王怜さまもお辛かったでしょうね」
「私より孔明が辛かったでしょう。姉はとても優しい人で、戦火を逃れ、苦労をしてたどりついた孔明にとっては何よりの救いだったでしょう。落ち込みようは見ていられなかった」
「――・・・」
 
月英は、そっと伏せた瞼の奥から王怜を覗き込むと、視線が合った。
 
「夜目でもその髪はとても目立ちますね」
「――よく言われます」
「あなたは武人なのですよね?活躍ぶりは江東でも噂になっております」
「――・・・」
「あまりの姉との違いに驚きました」
「――・・・」
「弟の私から見ても姉は美しい人でした」
「――私が、諸葛亮さまにふさわしくないことはわかっております」
 
喉がからからに渇いて、ようようと出した言葉はそれだった。
王怜は、それにふっと鼻白い笑いを滲ませる。
瞬間、月英は息苦しさに耐え切れず、失礼します、大きく頭を下げると逃げるように踵を返す。
瞼の裏が熱い。涙が溢れそうなのをこらえる。泣いてたまるものか――。
月英はきつく口腔をかみ締めて、涙をこらえる。

 
 ※

 
「――私が、諸葛亮さまにふさわしくないことはわかっております」
 
月英の声が孔明の鼓膜に届く。
そして、王怜の前からさっと身を翻して去って行ってしまった。
 
「何を話していたのですか?」
「たいした話はしていませんよ」
 
王怜は、ゆらりと穏やかそうに微笑む。
その微笑は朝佳に似ていると思った。ただ、違うのはその裏にあるもの――。
変わった。そう思った。おそらく互いにそう思っていることだろう。
 
「姉と彼女は似ていませんね」
「それが何か?」
「深い意味などありませんよ。」
 
 
朝佳は――。
名家に生まれ、何不自由なく育ち、孔明との恋も実り、人を憎むことも、思いが及ばず口惜しい思いをすることを知らない、思うがままの人生は、彼女を無垢な優しい女性へとつくり上げた。
確かに無垢で天真爛漫でいて優しい心を持つ朝佳に惹かれた。
月英も――。
育ちの良さなどは一緒のはずだ。けれど、彼女はどこか違う。
彼女は知っている。人を憎むことも口惜しい思いも知っていて、それを、自分の中で抑制して消化しようとつとめている。
 
 
朝佳によく似たまなざしを持つ王怜の横顔を一瞥する。
もう懐かしいと思った気持ちは消えている。
ただ胸に残るのは――・・・。




 
目が覚めたのは、頭の芯からこめかみのあたりに抜けていく重い痛みを感じたから。
月英は、眉間を渋くゆがめつつ、瞼を開くと、まずは視界が滲んだ。
長いこと寝ていたような気もするけど、ほんの少ししか寝ていないような。
そんな感覚が意識を濁らせる。
けれど、やがてぼんやりと視界が晴れてきて、寝台から半身を起こしてみる。
無によく似た静けさが、ふわりと月英を取り巻く。
そして、ゆらゆらと染み出してくる昨夜の記憶の糸に切ないまでの息苦しさが胸に蘇るのを必死に静める。
頭を揺らすとこめかみのあたりに痛みが走る。
泣きながら寝たせいだろうか、月英ははぁと大きく息を吐くと、周囲を見渡す。
ここは、城内に月英がもらっている工房だ。ほとんどここで過ごしている。
ゆっくりと立ち上がると、窓の外の鳶色の空の中、ゆっくりと流れている雲を見据える。
見据えたまま、どれだけ時が過ぎた頃か――。
月英は、兵の鍛錬があることを思い出した。

 
 
顔色が、と趙雲に言われ、大丈夫だと微笑んだつもりだけど、きちんと頬の筋肉が動いたか自信がない。
鍛錬は集中してこなせたが、終わった後、木陰に膝を抱えて座り込みながら、帰り支度をする兵士たちの喧噪を横目に空を見上げる。風が強くなり、唸りをあげている。
雨が降りそうだな、そう漠然と思っていると、
 
「また、下着見えるぞ」
 
と、馬超の声がした。月英は顔を見ずに、
 
「ご自由にどうぞご覧ください」
 
と答える。一瞬の間の後、
 
「別に見たくなんかねぇよ。それより、何かあったのか?」
「別に何もありませんよ。あっ、」
「何だよ」
「雨が降りますよ」
 
えっ、と馬超が顔を空に向けると、頬と額に雨粒が降ってきた。
一粒、二粒とまだ小さかった雨は、じょじょに大きくなっていく。
兵たちも皆、雨に逃げるように去っていく。
 
「おい、濡れるぞ」
「そうですね」
 
ゆっくりと月英は、立ち上がるとそっと前方に両手を出して、雨をすくうような仕草をして、嫌な雨、と呟く。
 
「あいつと何かあったのか?」
「あいつ?」
「軍師だよ」
「別に何もないですよ」
「本当に?」
「あったとしても馬超殿には関係ないでしょう」
「何だ、喧嘩でもしたのか」
 
ぷいっと月英が木陰から出て行こうとしたので、思わず馬超はその手首を掴む。月英は振り返って驚いた
ように、目を丸くして馬超を見つめてくる。
 
「濡れるから」
「もう濡れてますから」
「そうだけど、そうではなくて」
「意味が分かりません」
「だから」
 
ぐっと月英の手首を掴む力を込めて、思い切り引っ張るとふわりと月英の髪が舞い、馬超の鼻先をかすめ、やがて胸の奥からつんと切なさがこみ上げてきたのを馬超は眉をしかめて振り払おうとするが、月英がすぐ目の前に、ほんの少しだけ手を伸ばせば腕に抱き留められる距離にいる。
びっくりした、と顔を上げた月英と目があって、その声がいつもより近くて――。

憎いと思った。

馬超自身それが自分へと向かない月英の気持ちに対してなのか、孔明に対してなのか分からない。
ただ、憎いと思った。

けれど、それ以上に広がる想いがある。

馬超は、奇妙な切なさが揺れる想いの中、月英を見つめる。
彼女の瞳に自分が映っているのが分かる。今、彼女の瞳の中に映るのは自分だけ。
 
「だから」
「だから?」
「好きなんだよ」
「へ?」
「だから、お前が好きなんだよ」
「――・・・へぇ?!!」
 
思考回路が一瞬停止したのかぽかんとした顔をした後に、驚きの声を上げる月英に馬超は今更ながら、勢いで子供のような告白の仕方をしてしまったこと悔いた。
くそっ、と唸るように小さく洩らすと、
 
「な、なんで人にそんなこと言っておいて怒ってるのよ!」
「別にお前に怒ってるんじゃない!」
 
月英が掴まれたままの手に気付いたのか振り払おうとしたので、もっと力をこめて抱き寄せる。
触れたい、と願った。触れるべきだとさえ思った。
今、手に入れなければもう二度と触れることはできなくなる。そんな気がした。
驚く月英などかまわず、そのまま、手首を掴んでいた手を離し、その手でその頭を抑え付けてくちづける。
ほんの少し唇と唇が触れただけだったが、数瞬、月英の体が硬くなったままだったが、すぐに、月英が馬超の胸を押しのけると、その腕から逃れる。

馬超も月英を解放し、しばらく、見つめ合う。
 
「俺はお前に惚れてるんだよ」
「――」
「お前は、あいつに利用されているだけじゃないのか?」
「諸葛亮さまは――」
 
月英の唇から出た孔明の名にどこか甘えが混じっている気がして、馬超は不快な苛立ちが一瞬揺れたのを
隠すように口の端に苦笑を浮かべると、それに月英が眉をひそめ、無言のまま走り去った。


 
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