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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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分からない。そう趙雲は孔明に言った。



分からないとは?

孔明が問いかけたそれに、ただ口をつむんだ。
ただ、分からないのだ。それしか言葉が出てこない。

「月英殿を、妻にしたいか、したくないかの返答が分からない、ということでよろしいですね?」

孔明が言った。
趙雲は、頷きもせず、ただ、孔明の言葉を咀嚼するように頭の中で繰り返した。
無言のまま、しばらく時間が流れた。それに孔明が焦れるような様子もなかった。ただ、、一度羽扇を揺らしただけ。
揺れたそれに趙雲は、自分が長いこと黙ったままだったことに気付かされた。


「私はただ――・・・」

孔明の視線を感じるが応じることができない。

「彼女が幸せになってくれさいすれば、それでいいと・・・」

人の幸せなど他人には分かりませんよ、孔明がそう言った。

「他人からは幸せそうに見えても、実際にはそうではない人も多い」
「それはそうですが・・・」

責められているような気がした。けれど、孔明の声音、表情にそんな色は滲んでいない。
そっと孔明を見る。孔明もその視線に気付いたのか静かに目を合わせてきた。


「今の世、好いた相手に嫁げる女性は少ない。私は、それが目の前にあるというのに届かない月英殿が不憫に思える」

えっ、と趙雲が声を出すよりも早く孔明がその場を立ち去ろうとした。思わず呼び止めると、


「これ以上話したところで実のある結果が出るとは思えない。時間の無駄です。貴方から明確な返答が返るとは、思えない」


静かな声でそう言った。



月英が再び姿を現したのは赤壁の時――。
思いがけない月英の登場に驚き思わず目を反らした。それを彼女はどう思ったのだろうか。
再び彼女のいた方を見た時、すでにその姿はなかった。


そして、今――。
赤壁で勝利し、劉備軍は孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の四郡を占領した今、孔明は忙しそうだ。
戦いの後、孔明は月英を帰すだろうと思っていたが、そうではなかった。
彼女の父に頼まれ一時預かっている、そんな風に周囲に言っていた。一応、婚約というカタチはとっているようだが。



つい先ほど、ふたりが一緒にいた。
月英が自分に気付いた後、孔明も気付いた様子を見せた。一瞬だけ目が合ったかと思うと、孔明は月英と趙雲を、交互に見やった。いいのか、視線にそう言われているような気がした。



 ※



「では、そのようにお願いします」


孔明の執務室に呼ばれ仕事を頼まれ、分かりました、と答えると執務室の奥の書庫から物音がした。

「誰かいるのですが?」
「月英殿が整理してくれています」

月英が、と体中の意識が緊張した。趙雲はそれに孔明の視線を感じ、それを一度ゆっくりと瞬きをすると、振り払う。それに孔明が口の端に笑いを浮かべたのを見て、何もかも見透かされているというような落ち着かない気持ちになった。

では、と踵を返そうとした時、ガタッと大きな音がしたかと思うと、いたぁ、という月英の声がしたので、ふたりともそちらに気をとられた。
孔明が自分に行くように、そんな目線を送ってきたが趙雲は動けなかった。それに小さく息を吐き落とすと、孔明が腰を上げ、書庫へと消えた。


「どうしたのですか?」
「これが落ちてきました」
「それは痛かったでしょう。冷やしてきなさい。腫れますよ」
「分かってますけど、目が・・・」

会話だけが趙雲の耳に聞こえてくる。

「戦で多少怪我をしても泣かないのに、こんなことで泣くのですね」
「それとこれとは痛みの意味合いが違います」


その気持ちはなんとなく分かるような気がすると趙雲が思った時、


「趙雲殿」


孔明の声がした。

「な、何でしょうか?」
「瞼の上に書が落ちてきたらしく視界が不明瞭らしいです。手当てをお願いします」


書庫の奥から、月英は背を押されたのか、押し出されるように姿を現した。
左目を左手で押さえながら、右目で月英は趙雲を見た後、すぐ様助けを呼ぶように、孔明に振り返るが、


「もうふたりの伝言係りのような役割は面倒で仕方がない。私は忙しいので直接話すいい機会ですよ」


そう言われも月英は振り返ることはなかったが、書庫から出てきた孔明が乱暴に月英の体を押すと、趙雲へと向き合わせる。


――・・・。


互いに言葉なく見つめあったが、


「早く冷やさないと腫れますよ」


孔明はそう言うと、やりかけだった仕事に戻った様子を見せた。


 ※


瞼に触れたひんやりとした感触に、月英は一瞬身をすくめる。
水で冷やした手拭を手でおさえながら、そっと自分を見下ろす趙雲を見た。
吸い寄せられるように合わさった視線は、互いに何ともいえない表情を作り出す。

「痛みは?」

そう問われて、大丈夫です、と唇の片端を上げて答える。

「書が落ちてきたそうですが」
「はい。変なところに積み重なっていたので気付かずに、思い切り直撃しました。あんな所に置いておく諸葛さまがいけません」
「ははっ・・・」

趙雲がほんの少しだけ笑ってみせる。
そのつくり笑いを見て、月英はそっと目線を下げる。

本当は――・・・。
本当は、この人とふたたび視線を合わせたり、ふたりきりになった時、自分がどうなってしまうのだろうと不安だった。
なじってしまうのか、泣いてしまうのか、それとも――・・・。
けれど、今、以前の想いなど知らんぷりの、上辺の会話を交わすことができている。
不思議だと月英は自分で思った。


「痣にならなければいいですが」
「それは大丈夫だと思いますよ」


そっと手拭を外して、書があたった部分を直接指で触れる。

「傷が・・・」
「切れてますか?」
「残ってしまっては大変だ」

趙雲が傷に触れようとしたのか手を指し伸ばしてきたが、瞬間月英はほんの少し、体を反らして拒否する。むなしく空に浮いた手を、ぐっと握り締めると趙雲は手を下げる。それから、


「軍師殿と・・・うまくいっているようですね」


意趣返しのつもりなのか、ほんの少し意地悪気に月英を見る。
それに、月英は手拭を再び瞼にあてて、頬にふっと笑いと洩らす。


「うまくいってるとかそういうのではありませんよ。ただ、放っておけないというか・・・」
「えっ?」
「誰かが言わないといつまでもいつまでも仕事ばかりしている人です。仮眠だけで睡眠さえもきちんととらない」
「――・・・」
「子供みたいなところがある人です」


だから、放っておけないのだ。それに――・・・。


「殿が進む上で、避けえぬもの、恨み、憤り、そして犠牲。それらは私が一身に受け、殿には世を照らす月となっていただく」


孔明の言葉が蘇る。ふとした時、この言葉が思い返されてならないのだ。
月英は、その言葉を聞いたとき、「その努め、私にも半分背負わせていただけますか?」と思うよりも早く言葉が出ていた。

別にひとりで背負わなくてもいいではないか。ひとりよりふたりがいいに決まっているのだから。

一度、問いかけた。孔明が執務室で遅くまでひとりで仕事をしていたので白湯を持って行き、

「おひとりが好きなのですか?」

そう言うと、孔明は月英を一瞥だけして、

「さぁ。ひとりは気楽でいいですが、その気楽さは他の人といる時間があるからこそ感じるものですから」


そう答えた。
孔明と知り合ったばかりの頃、ざらりした何かが胸に生まれ落ち着かない気持ちになった。足元から何か絡めとられ、いつしか足場がなくなっていしまうのではないか、どこかに落ちてしまうのではないかという不安に苛まれた。

それは今でも時折感じることがある。時々、恐ろしくなるのだ。孔明の目が。
けれど、そんなことなど思ってもいない振りをして孔明に接する。といっても小言を言うことばかりだけれど。



黙ってしまった月英を、趙雲は不審気に見ていた。
月英はそれに気付き、顔を上げると、手拭を瞼から外す。


「もう大丈夫です」
「でも・・・」
「本当に大丈夫です。何もかも――・・・」

えっ、と趙雲は眉を顰める。それにほんの少しだけ微笑んでみせる。


「傷も残りませんわ、きっと」


 ※


趙雲の問いに孔明は、珍しくあからさまに迷惑そうな顔して見せた。
趙雲はそんな孔明に一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐさま真摯な瞳に戻り、孔明を見据えてくる。

趙雲と月英。
なんだかんだいってふたりで話せばすぐに解決してしまうだろう。そう思っていたのだが、そうでもなかったようだ。孔明は、溜息を落としたくなるのを堪えた。

かつて、

「貴方は私が月英殿を抱いてもよろしいというのですか?娶るとはそういうことですよ」

自分が趙雲にそう言ったとき、すぐ彼は瞳に鈍い哀しみに沈ませたかと思うと、すぐに嫉妬と怒りに満ちて瞳を光らせた。それほどまでに彼女を愛しているのならば、何に囚われているのか知らないがとっとと自分のモノにしてしまえばいいものを、と孔明は思った。


瞼に怪我をした月英の手当てを趙雲に任せ、仕事に戻ってしばらくして、孔明としてはしばらくのつもりだったが、かなり時間は過ぎていたようだが、孔明の執務室に現れた趙雲は、前置きもなく、


「貴方は月英を妻にしたら、戦場に出しますか?」

と問いかけてきたのだ。
ただ面倒くさそうな様子しか見せない孔明に焦れたように趙雲が唇を開きかけた時、


「出すでしょうね」

と孔明は、コトッと小さな音をたてて筆を置いた。


「妻をですか?心配ではないのですか?」
「本人が嫌がれば出しはしませんが、月英殿が嫌がるとは思えないのできっと出します。私は本人の意思に任せます」
「そこは私と貴方の違いなのですかね・・・」
「さぁ・・・。仮に妻にしたのならば、堂々と出せていいかもしれませんね。彼女は武人としての能力が高いですから、欲しい戦力ですよ」


仮の話だというのに、責めるような趙雲の口調に孔明は、口の端に笑い浮かべる。それは嘲笑っているようにも見える笑みだった為、趙雲の瞳に怒りが灯る。


「そんな男に任せるのが嫌なのならば、なぜ自分のモノにしないのですか?」
「そこに彼女の意思がなければ出来ません」
「――月英殿に見限られでもしましたか?」
「どうとでも言ってくれて構いません」

おふたりの間にどんな会話はなされたのかは分かりかねますが、と孔明は言う。

「月英殿は意地を張っているだけではありませんか?」

趙雲が否定の言葉を口にするよりも早く、

「相手が貴方だから甘えているだけではありませんか?」
「私も最初はそう思う気持ちがありました。」

けれど、違うということが分かりました、そう言う趙雲の顔に苦渋の色が滲む。


「私は、ただ彼女が幸せになってくれればと思っていました。そう思って、彼女を突き放しました」

孔明は、月英から断片的にぽつりぽつりと趙雲との話を聞いていた。
劉備の共に屋敷に来た趙雲と出会い、頼み込んで武芸を教えてもらうようになって、それから――。


「あの時の、あの状況ならば適切な判断だと思いますが」

知っているのですか、と趙雲が言うので、断片的に月英殿から聞きました、と答えると、そうですか、と趙雲は苦笑いする。けれど、すぐにすっ・・・と真面目な顔をして、


「彼女が再び私の前に現れ、共に戦場に出た時、確かにその戦力は魅力的だと思う気持ちもありました。けれど、私は・・・。貴方から月英からの縁談のことを話された時、もう手の届かない蔦に絡んだ華のように彼女を思いました。蔦が彼女を守っているように思いました」
「守っていると思える蔦は、彼女が女であるが故のしがらみでは?彼女を解放する為にも切ってしまえばいいのではないですか?」


そうではないのですよ、趙雲は首を振る。


「蔦が彼女を守っているのではなく、彼女が蔦を守っている、そういうことなのだと分かりました。そして、」


その蔦は貴方ですよ。


頬に笑みを浮かべて趙雲はそんなことを言う。
趙雲の言葉に、孔明は眉を顰め、意味が分かりません、と言う。
けれど、孔明の問いに趙雲は答えるつもりなどないらしい。ただ、その頬に笑みを浮かべているだけ。
そして、言いたいことは言ったとばかりに、では、と踵を返したかと思うとすぐに振り返り、あぁ、それから、趙雲は言う。

「どうやら、貴方は月英の母性本能をくすぐる人のようだ」

と言い残して去って行った。
残された孔明は、話が見えてこない、と小さく溜息を落として呟いてから筆を取る。
仕事に戻ろうとしたが、珍しく気分が乗らずに、再び溜息を落として立ち上がると、書庫へと向かう。
先日荒らしてしまった内部はだいぶ片付いていた。
ひとつ無造作に置かれた書が目についた。あぁ、これが月英殿に落ちてきた書か、と孔明が手に取った時、廊下から小さな足音がして執務室の前で止まった。
書庫から出ると、小さく扉が叩かれる。どうぞ、と言うと月英が顔を出した。
怪我はたいしたことがなかったのか、腫れている様子もなかった。


「先ほど、趙雲殿が来ましたよ。会いませんでしたか?」
「いいえ。何か言ってましたか?」

月英は孔明の近くで立ち止まる。近くで見るとほんの少し瞼に怪我をしているのが分かった。


「怪我は大丈夫なのですか?」
「ええ。もう痛みもありませんし、傷も残りませんわ」
「なら、いいのですが」
「そんなことよりも趙雲殿は何か言ってましたか?」


そっと月英は孔明の様子を伺うように見上げてくる。孔明は月英の顔をじっと見て、


「私は貴方に守られているらしいですよ」


と答える。その答えに月英は、一瞬戸惑ったように、そんなことを・・・と呟きを落としたかと思うと、すぐにくすくすと笑う。


「私には意味が分からないのですが」


孔明がそう言うと、月英は笑うのをやめて、けれど、頬に微笑を浮かべながら、


「すべてのことを分かろうとしなくてもいいのですよ」


そんなことを言う。孔明が、そうかもしれませんが、と言うと、そうかもしれませんが、ではなく、そうなんです、と月英は、子供をたしなめる母のような口調で言う。


「分からないことがあってもいいではないですか」


それから、書庫の整理が途中でしたから、とくるりと身を翻して書庫へと向かう。
その背を何気なく見ていると、月英の足が止まった。なにかと思うと振り返ることなく、


「私は守っているのではなく、貴方が受けるであろう闇に一緒に落ちていこうと思っただけです」


そう言うと書庫へと消えて行った。


意味が分からない、と孔明はまた思うが問いかけたところで、


「すべてのことを分かろうとしなくてもいいのですよ」


そう言われるだけだろうと思い、なんだか落ち着かない気持ちを持て余し、仕事に戻る気にもなれず、月英が書庫から出て来たら屋敷に帰り、彼女の怪我に軟膏でも塗るように言おうと思った。


そして、私が落ちるであろう闇か・・・、と小さく呟きを落とす。


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