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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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契約ですか?


月英は、孔明の言葉を繰り返し、それから、その意味を飲み込むように口をつむんだ。
そんな月英に孔明は、ええ、と頷く。

契約。

その言葉を、月英は口腔で再度繰り返し、戸惑いを隠すように唇に指の腹で触れて、ひどく乾いていることに気付いた。唇だけではない。喉もひどく乾いている。


私たちの婚姻は契約だと、孔明は言った。
それに結婚というのは誰であれ、少なからず契約を結ぶのと同じ意味合いだと言う。
言われてみればそうでもあるのだけれど――・・・。

そっと月英が、孔明を上目使いで様子を伺うように見ると目が合った。
そして、じっ・・・と見つめられると、やはり怖い、と思う気持ちが生まれる。何か心の奥底から絡みつかれるような、そんな錯覚を覚える。


あの後――。孔明が、趙雲とのことを父に許しを彼が得てくれるという提案をくれた後。
月英は、荊州に戻った。
江夏から、曹操の手に落ちた荊州に戻るのは容易ではないだろうと思ったが、孔明が自分の配下だという密偵をつけてくれ、また多少困難な経路だが、と道を教えてくれた。
その道は、多少困難どころではなく日頃鍛えていて良かった、と月英がつくづく思ったほどで、しかし、よく調べてあるものだと関心もした。おかげで無事帰り着くことができた。
屋敷に戻ると父に孔明から縁談の話を聞いたと告げた。
孔明から月英に話したということに父は驚き、そして、月英に改めて孔明との縁談の話をした。

考えてみるから待って、と月英が口にした時、父はとても驚いていた。
それまで、縁談の話はいくつかあったが、すぐさま嫌だと言っていたのだから、保留の返答に期待をしている様子で、

「諸葛孔明という男の妻になるというのはきっと楽ではないだろうが、きっといい縁だ」

父の言葉に月英は小首を傾げる。
今まで父は、月英に婿を望み、叶わなければ地元に嫁がせたがっている様子だったが、今、孔明は隆中にはいない。楽ではない相手に嫁がせたいという父の気持ちが分からなかった。

「お前がただ屋敷の奥で、大人しくしていられる妻になるとは思えないから、彼と一緒ならば少しは安心していられる」

その言葉に月英が眉を顰め、

「あの方と一緒になるということが、お父様を安心させるとは思えないのですが」

反論すると、今に分かるさ、と父は含み笑いを洩らした。





屋敷に辿りついてしばらくして、孫権軍と劉備軍が長江南岸、赤壁に布陣し、曹操軍と対峙していたという話を聞いた。
父に赤壁に行きたい、と告げると反対なく送りだしてくれた。
赤壁に着き、すぐに孔明を見つけた。
一瞬だけ月英の突然の登場に驚いたようにも見えた孔明だったが、月英には彼の思っていることなどは読めない。忙しそうな様子だったのでかすかな礼を取ってその場を去った。

その後、趙雲を見かけた。
彼と目が合ったのはほんの一瞬。すぐさま反らされた。
思わず月英は眉を顰めて、自分を見ていない趙雲を睨みつけた。


それから、数日後。
夜、対岸の曹操軍を見つめている孔明に、月英は声をかけた。



「父より改めて縁談の話を聞きました」
「そうですか」


しばらく、互いに対岸を見据えていたが、一瞬強い風が吹き、月英の髪が大きく揺れた時、


「趙雲殿は、分からない、としか言いませんでした」


孔明が言った。その声には何も感情の色は滲んでいない。


返答を趙雲に任せた結果もらったものは――分からない、という言葉だけか、と月英は思った。
そんな気がしていた。
別に趙雲は自分を、妻には望んでいないのだろう。
なんとなく分かっていた――ような気がする。
それに、自分も決して趙雲の妻になることを望んでいたのか、と問われれば分からないと答えるしかないのだから。
お互いさまだ。
孔明からそう言われても驚きも哀しみも何もなかった。
あぁ、そうですか、という乾いた気持ちだけしかなかった。
そんな月英に孔明も驚いた様子を見せなかった。ただ無の表情しか見せない。


「私ももう彼のことは分かりません。今はただ、娘として父を安心させるために――」


一度言葉を区切り、小さく息を吐き落とす。


「貴方さえよろしければこの縁談を受けたいと思っております」


月英の言葉に、しばらく無言の視線を注いでいた孔明だったが、


「私の妻になるということは、趙雲殿もすぐ近くにいるということですよ。それでいいのですか?」
「ええ。そんなこと分かっております」

また、しばらく孔明は黙った。
その沈黙に、月英は耐えられなくなり唇を開いた時、


「では、我々の結婚は契約ということにしましょう」


そう言ったのだ。



 ※




――諸葛さま!!


夢とも現とも分からないぼんやりした眠りからはじけたのは、月英の声によって。
孔明が、ゆっくりと瞼を開くと、自分の前で仁王立ちしている彼女が見えた。


「こんなところで眠らないでください!」

月英が言うこんなところというのは孔明の執務室だ。まるで子供をたしためるよう母のように月英が言うので、


「夢を見ていました」

と軽く笑う。

夢ですか?諸葛さまが?月英は今まで怒っていたことなど忘れたのか、きょとんとした顔をして孔明を見る。


「私だって夢を見ますよ。意外ですか?」
「どうせお仕事の夢でしょう?」


怒っていたのを忘れていると思ったのは間違いだったようで、唇を尖らせると、くるりと月英は背を向けてしまう。どこで行くのかと思うと執務室の書庫の奥へと入っていくと、あぁ、もうまたすぐに、と唸るような声を聞こえてきた。どうやらまた怒らせてしまったようだ。
先日、月英が整理してくれた書庫だが、資料を出すのにすぐに荒らしてしまった。
それを見て月英は、また怒ったのだろう。孔明は苦笑を洩らす。
それから、再び瞼を閉じる。夢を見ていた。赤壁の頃の夢だ。


「では、我々の結婚は契約ということにしましょう」


あの時、月英にそう言った。
自分の言葉に月英は驚き、そして、戸惑っていた。
だから、結婚というのは誰であれ、少なからず契約を結ぶのと同じ意味合いだと告げた。
その方が、彼女が断りやすく、また、破棄しやすいだろうと思ったのだけれど――。
最初は戸惑いが隠せなかった月英だったが、すぐに頭の整理がついたのか、


「結婚が契約だとして、契約だからこそ相手を知らないと結べませんわ」

孔明を真っ直ぐに見据えて、

「この一戦で、今一度あなた方、いえ、あなたを見極めさせていただきます。」

と澄んだ声で言った。
それから、すっと視線を反らした。あの頃、彼女はよく自分から視線を反らそうとしていた。



あれから、たいした時間は流れていないはずなのに、とても前のことのように孔明には思えた。ぼんやりとした心で孔明は瞼を開くと、、書庫の奥から月英が様子を伺っているのが分かった。
孔明と目が合うと月英は、

「寝るならちゃんと屋敷も戻って寝てください!倒れても知りませんからね!」

ぷいっと顔を反らす。
そういえば、ここ数日忙しく屋敷にも戻っていないし、月英の顔を見たのも久しぶりだと孔明は今更気付いた。


そうですね、少し休みましょう、孔明がそう言うと、月英は頬を揺らして少し安心したように微笑んだ。


赤壁で勝利した後、劉備軍は孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の四郡を占領し、本営を油口、後の公安に本営を置き、役所がすぐに起動し始めた。
だから孔明は多忙を極めている。
劉備軍に内政を取り纏めることができる人材が不足し過ぎている。
月英は頭の回転もよく、知識も素晴らしいものがあった。なので、補佐的なことを任せることもある。
それに、時には今のように子供をたしなめる母のようなことを言う。


一度月英に聞かれた。自分の目指すものを――。

「殿が進む上で、避けえぬもの、恨み、憤り、そして犠牲。それらは私が一身に受け、殿には世を照らす月となっていただく」

そう答えると月英はすっと真摯な瞳で自分を見据えてきた。そして、

「その努め、私にも半分背負わせていただけますか?」

そう言ったのだ。いいのですか、と問いかけると月英は小さく頷いた。
月の光に照らされた月英の赤い髪が揺れていた。
それはとても月に映える不思議な花のようだと孔明には見えた。



執務室を出て、隣を歩いていた月英の歩が、ほんの少しだけ緩まった。
趙雲殿、と小さく呟きを落としたのが聞こえたが、すぐに彼の名前を口にしたことすら忘れてしまったかのような顔をして、また、歩き出す。
趙雲も孔明と月英に気付いたらしく、一礼をするとすっと行ってしまった。
孔明は、何も言わない。
月英の心の中に、まだ趙雲が住み着いている。
そして、趙雲の心の中にも、月英が住み着いている。
そんなことはすでに分かりきっていることだ。聞かなくてもふたりを見ていれば分かる。

だから、まだ何を互いに意地を張り続けているのか、そんな風に思えて仕方がない。

婚約、というカタチのまま、忙しさを口実に縁談の話は空に浮かせたまま。
ありがたいことにそれに対して体裁などうるさいことを言ってくる人物が劉備軍にはいなかった。
契約、と月英に持ちかけた時、断られると思っていたのが本音。
けれど、月英の返事は承諾というもの。

それは、もしかして――。

もしかして、趙雲の傍にいたいが為だけではないのか?

そんな風に思うことがあるが、今の孔明には私事や他人の色恋にかまわけている時間はない。


さっさと互いに意地を張るのを止めればいいのに、と思うばかり。
絡まった蔦など切り裂いてしまえばいいのではないか。

 
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