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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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「闇夜ですね。月が見えないと寂しいのではないですか?」
 
振り返らずとも誰か孔明は分かる。趙雲だ。孔明は彼に背を向けたまま、新野城の渡り廊下で漆黒の闇が広がる夜空をただ見上げる。
 
「月の神は男だといいますが」
 
足音が響いて、隣に趙雲が立ったのが分かった。闇に慣れた目でその男を見る。
 
「本当はあの人のように男装しているのかもしれない」
 
横目で趙雲を見やると、彼は夜空を見上げていた。闇夜なのにまぶしそうに目を細めて。
 
「これから、月のない闇夜の世界で生きていくつもりですか?」
 
孔明が歩きだすと趙雲もついてくる。
 
「そんなに主君を偽ろうとしたことが許せないですか?殿ならきっと笑って許しますよ」
「それにあまんじよと言うのですか?」
「では、あなたは本当に月を忘れられるのですか?」
「ええ」
 
事実、忙しさの中、月英のことを忘れた日だってあった。
これから、こういう時間を重ねればきっと――。
 
「では、さっさと後添いでも娶って、彼女にそれを示しなさい。女なら私が見繕ってきます。そして、彼女のことは私が引き受けます。あなたが後添いをいつか娶るかもしれないということは、彼女だって誰かと再婚するかもしれないのす。彼女が嫌だと言ってもあの細い体を組み敷くことぐらい簡単だ」
 
孔明の歩が止まる。それに合わせて趙雲も止まる。
 
「事実、今日、あなたのことで泣く彼女に胸を貸しました。とても細く、簡単にへし折れそうだった」
 
孔明は無意識に趙雲を睨みつけていた。
それを、クッと喉を揺らして趙雲が笑う。
 
「そんなことで嫉妬するくらいなら月を忘れられない」
「趙雲殿、私はあなたが何をしたいのかが分からない」
「分からないでいいですよ、軍師殿。何もかも分かろうとする必要はない。ただ、あなたは我が軍に今までなかった理知的な思考力と政治力を持っている。関羽殿に張飛殿だって本当は分かってます。ただ、今までになかった人材はすぐには受け入れにくいのです。だから、あなたに才知を発揮する前に腑抜けられたら困る」
「趙雲殿?」
「私は、あまり性差を問題視しない。彼女は、女という前に武人になれる人です。今、彼女に必要なのは精神の強さのみ。そして、あなたに必要なのはすべてを受け止めてくれる存在」
「――・・・」
「軍師は、大量殺人を考え実行させる存在で、論理的発想や政治などは、必ず人を傷つく人がでる。それに苦しむ時が必ずきます。その時に、あなたには月が必要なのです。陽は殿に注がれ、あなたは闇夜の中、明かりを求めてさ迷うことになるでしょう。だから、今、その明かりとなるべき月である彼女に精神的な強さを持ってもらいたい」
「――・・・趙雲殿・・・あなたは・・・」
「私はあなたのように賢くないが、年長者として言わせてもらいます。思い出さないことと忘れることは違う」
 
趙雲の言葉が矢となって孔明の胸を射る。
 
「――・・・それは・・・」
「思い出さないというのは、忘れていないから起こることです。忙しさや思い出に胸が痛むからと思い出すことを拒否しつつ、結局、彼女が心が自分にあると思っているからこそできることなのです。つまり、あなたは彼女に甘えているからこそ、思い出さないでいられる。好いた惚れたという感情に心揺れるぐらいなら、さっさと彼女を受け止めなさい。女々しく月ばかり見上げていないで」
 
そのまま、趙雲は孔明の脇をすり抜けていく。

 
 ※

 
「女とか男とかそういう前に、武人とおなりなさい。」
 
趙雲の言葉を月英は心の中で繰り返す。
そして、その通りかもしれない。今、自分に必要なのかそういうことなのだろう。
孔明の傍にいたい。彼を守りたい。彼の作り出そうとしている世界の手助けがしたい。
その為には、女だとか男だとか、そういうことではなく、武人であればいいのだ。
 
何か突破口が見えた気がした。
 
月のない闇夜を見つめていると、髪が引っ張られ驚いて振り返ると、劉備が笑いながら立っていた。けれど、髪を引っ張ったのは劉備ではなく、その腕の中にいるあたたかく、そして、愛らしいもの。
 
「戦場だったら後ろ傷だ」

劉備が笑って言う。月英が控えようとしたのを手で制する。
 
「夜目でも目立つな、その髪色は」
「よく言われます」
 
月英の目は自然と劉備の腕の中へと注がれる。
 
「阿斗さまですか?」
「ああ。普段忙しくてなかなか一緒にいられないからたまには父親らしいこともせねばと思って寝付けないらしいから散歩をしていた」
「護衛もつけずに・・・」
「いいのだ。その方が、阿斗も機嫌がいい」
 
じっと阿斗に見つめられ、月英の頬が自然と緩んだのを劉備は見た。
 
「抱いてみるか?」
「よろしいのですか?」
「もちろん」
 
そっと月英が両手を開けば、阿斗は楽しそうに飛び込んでくる。
阿斗は、唇を開いて何やら唸りながらもおとなしく満足そうに月英の腕に抱かれる。
いのちの重み、あたたかさを月英はそっと抱きしめる。
 
「阿斗はそなたを気に入ったようだな」
「光栄です」
 
月英の頬が自然とほころぶ。
 
「孔明が言っていた。そなたの姉は子供ができないことを悩んでいると」
「――そんなことまで話しているのですか?」
 
月英の肩が一瞬だけビクッと揺れた。
 
「話の流れでな。私も娘には恵まれたが、息子はこの年になるまで・・・。姉上も孔明もまだ若いのだから、気に病む方が体に悪いと姉上に機会があったら言ってやってくれ」
「――はい・・・」
 
もしかして、劉備は――。
 
「私は思うのだ。孔明も才知溢れる人間であり、その妻も孔明の話だと才のある人のようだ。そんなふたりが夫婦になるということがある種の奇跡であり、その子となると授ける天も悩むだろう」
「―えっ?」
「天才すぎる人間は時に脅威だ。だから、天も慎重に考えるのだろう。時間がかかって当然だ」
「――殿は姉をかいかぶりすぎです」
「私は人を見る目だけはあるつもりだ。英に初めて会った時、いい目をしていると思った。人を大切に思う目をしていると思った。だから、来てくれて嬉しかった」
「――殿・・・」
「ところで、英は劉琮殿の縁者だったな」
「なじみはほとんどありませんが・・・」
 
劉琮は、劉備を客将としている劉表の次男で、月英の母と劉琮の母は縁戚にあったが、母を早くに亡くしていたためかつきあいもほとんどなく、月英にとってはなじみの薄い親戚である。
劉表は前妻の産んだ長男である劉琦に跡を継がせたいのだが病弱なこともあり、劉琮派が黙っていなく後継者争いで揺れていた。

孔明は、月英がその縁者であることを気にしているのだろうと劉備は思った。
 
争いの火の粉が月英に降りかからないとも限らない――。 
 
その時、阿斗が唸った。眠たくなりはじめてぐずり始めてようだ。
月英は阿斗を覗き込む。
そして、やはりいとおしいと思うのだ。自分の子ではないけれどやはりいとおしい。
この重みが、このあたたかさがいとおとしい。
これが母性本能なのだろうか?
劉備に返す前にそっとそのあたたかさを抱きしめなおす。
望んでも望んでも手にできなかったこのぬくもり。
そして、あたたかいものを抱きしめながら苦しさを感じた。
殿を私は騙しているのだと――。
気付いているのかもしれない。けれど、騙していることには違いない。
今、孔明の気持ちが分かったような気がした。
 
この人を騙すことはこんなにも心苦しく自分を苛む。
 
そんな月英を劉備はじっと見つめた。


 ※

笑い声が聞こえた。
孔明はその声の軌跡をたどると月英が関平と笑い合っていた。
鍛錬が終わったのだろうか。泥のついた汚れた身なりをしていたが、笑顔は明るい。
彼女はすっかり劉備軍に溶け込んでいるように思えた。
関平を通して関羽とも面識を持ったらしく、「義弟はやるな」と言われたこともある。
孔明は、月英の笑顔を見つめた。
何がそんなに面白いか分からないが関平とまだ笑い合っている。
そんなふたりに星彩がなにか無表情で言い、また笑いが起きたようだ。
あの頃――晴耕雨読の日々を過ごしていた頃――畑で泥にまみれて作業をしていた月英の笑顔もこんなであった。
自分がなくとも月英は大丈夫なのか。
いや、もともと、彼女は自分の妻などで終わる人間ではなかったかもしれない。
この新野で彼女の生きるべき道が開かれたのか。
 
「思い出さないことと忘れることは違う」
 
趙雲の言葉がことあるごとに蘇る。
そして、そうかもしれないと思うだの。本当に忘れるということは、月英との日々がただの思い出になるということだ。
自分は意識的に忙しさのかまけ、思い出さないようにしているだけなのだ。
意識のどこかに常に月英を滲ませると辛くなるから、だから、思い出さないだけなのだ。
月英を思い出にすることができるかと問われれば、否だ。
けれど、今彼女を受け止められるだけの余裕もない上に、うまくいっている彼女の世界をも壊すことになるのではないか。そう思っていた時。
 
「軍師殿、劉備様がお呼びです」
 
駆け寄ってきた兵の言葉に孔明は静かに頷く。

 
 ※

 
関平とくだらない話に大笑いしてしまった。
それを星彩に冷静に「馬鹿みたい」といわれ、また笑う。そんな月英と関平に呆れたのか星彩はさっさと行ってしまった。
あれから、星彩とは表面上何も変化はなかった。
一緒に稽古をするし、時には星彩も自分のことを話してくれることもあったが、どこか当たり障りのない関係だ。
それが別段悪いわけではない。けれど、時折感じる星彩の視線。
彼女の背が見えなくなった頃。
 
「英は、星彩をどう思う?」
 
突然、関平が言った。

「強いけど可愛いコだよね。将来絶対美人になる」
「――そういうことじゃなくて・・・」

こもるように言う関平に、月英の唇がにやりとする。

「関平は、星彩が好きなんでしょ?」
「――っ」
「見てればすぐに分かるよ」
「英は?」
「私?可愛いコだなとは思うけどそういう対象には絶対にならない」
「最近、星彩は英ばかり見てる気がする。前は趙雲殿で・・・」
 
はぁ・・・、と関平がため息を落とす。そのため息を受け、月英は苦笑を洩らす。
 
「星彩が私を見てるのは意味が違うからなぁ」
「どういうこと?」
「趙雲殿にとって今の私は新しい玩具みたいなもので世話してくれるけど、それが星彩には気に入らないだけだから」
「結局は趙雲殿なのか・・・。やっと星彩の背も追い越せたのに」
 
関平はしゃがみこんで頭を抱える。月英もしゃがみこむと彼の目を覗き込む。
 
「なかなかうまくいかないんだよ、こういうことは」
 
そして、空を見つめる。
季節はもうすっかり夏の盛りが過ぎようとしてる。月英はそのことに初めて気付いた気がした。
からだにじっとりと残夏が取り巻いてくる。

 
 ※

 
月英の作った道具によって農作業の効率が上がったと聞かれた時、さすがに嬉しかった。
その褒美として馬をもらった時、自分がここにいてもいいのだと言われた気がして、嬉しいというよりも安堵する気持ちの方が強かった。
遠乗りに行こう、と星彩を誘うと、彼女は静かに頷いた。
 
山中の濃い緑の中を走る。
星彩がいいところを知っていると連れて来てくれたのは、新野の城を遠くに望める丘だった。
馬をつなぎ、ふたりで丘から城を見下ろした。
 
「すごい!よく見える」
「でしょ?」
「よく来るの?」
「ほんのたまに。嫌なこととかあったら。でも、遠いからなかなか出してもらえない。今日も英が一緒だから父上が許してくれたの」
「へー・・・」
「英は女に対して無害そうだからって」
「・・・それはそれでなんか複雑なんだけど・・」
 
じっと遠くの城を見つめていると星彩の視線を感じて、彼女に視線を移す。
 
「英は、綺麗ね」
「えっ?」
「怒るかもしれないけど女の人みたい」
「――・・・」
「趙雲殿が――」
「待って。ずっと訂正したかったんだ。勘違いしてるみたいだから。別に私と趙雲殿はそういう関係じゃない。あのとき、本当いろいろあって精神的におかしかったから、趙雲殿は子供をあやすみたいな感じで」
「私は趙雲殿の相手が英ならいいなって思ってる」
「――えぇっ!!!」
 
一瞬の間の後、月英は大声で叫んでいた。それを星彩はじっと見て、
 
「だったら、自分は女だから対象外だって思えるもの」
 
と言った。
 
――あぁ・・・、と唸りつつ複雑な気分だけれど月英も分かる気がした。
 
「なかなかうまくいかないんだよ、こういうことは」
 
関平にも言ったことを繰り返す。すると、
 
「男に生まれたかったな。そうしたら、もっと楽なのに」
 
月英に言うでもない、ひとり言のように星彩がつぶやきを落とした。
それに、自然と月英の頬が緩んだ。結婚前、自分も同じことを思っていた。自分の好きなことは男なら受け入れられるのに女というだけで渋い顔をされる。それに辟易していた。
けれど、孔明に出会った――。彼はすべてを受け止めてくれた。
 
「きっと女もそうそう悪いものじゃないと思うよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
 
きっと、そう。
女を捨てようとしている今、そう思うのもおかしいもかもしれないが、彼女にもかつての自分のようにすべてを受け止めてくれる人ができるだろう。
そう思いつつ、そっと星彩の頭を撫でてみる。孔明にこうしてもらうと自分はいつも心が安らいだからそれをまねてみる。
彼女はそれに素直に甘えるように寄り添ってきた。
 
 


 ※


新野城から少し離れた場所に小川が流れているところがある。その小川から用水路をひき、田畑を作っているのだ。
夜、真っ暗になる前に月英はそこへ向った。
汗を流したかったのだ。湯浴みなどは趙雲が見張ってくれてしてはいたが、気は急くだけなので時折気温の高い日などは人気がないことを確認して小川で汗を流した。
汗を流し、体を拭き着替えている途中だった。

「もう少し用心なさい」

と声がして驚いて振り返ると、孔明が立っていた。

「孔明さま・・・」
「早く着替えなさい」
「は、はい」

急いで孔明に背を向けて、着替えるが驚きのあまり手が震えてうまくいかない。
背に感じる孔明の視線。緊張して手が震える。
 
「月英」
 
名を呼ばれ、おそるおそる振り返ると孔明が近づいて来た。

そして、一瞬何が起きたのか分からなかった。

気がつくと、川辺の草の中に自分の身があり、それに覆いかぶるように孔明が月英の体を抑えている。押し倒されたのだと分かるまでほんの少し時間がかかった。
 
「無防備すぎです。今のあなたは襲ってくれといわんばかりに無防備です。他の男だったらどうるのですか?」
「――申し訳ありません」
 
確かにもっと周囲に気を配るべきだったと素直に反省した。孔明は自分を諌めようとしたのだろう、そうは思うのだが、じっと自分を見下ろしてくる孔明から目が離せない。けれど、その瞳の奥の感情が読めない。
そのまま、手首を力強く抑えられた。
何かがおかしい。そう思ってその手から逃れようとするが、びくともしない。
 
「・・・孔明さま」
「私のような非力な男の手さえ抗えないのですか?」
 
ぐっと力を込めて抗おうとするが、孔明の手には適わない。
正直月英は驚いていた。自分の方が武術に長けている自信があったというのに――。
 
「月英、今は少年と思われ、まだ誤魔化しがきくかもしれない。けれど、いつまでも欺くことは不可能です」
「――・・・」
「このように――」
 
いきなり両手を頭の腕でひとつに抑えられ、月英の体が大きく震えた。
ふくらはぎからふとももにかけて、裾をまくしあげられ、孔明の手が触れてきたのだ。
そのままふとももを撫でられる。
 
「いつまでも白く柔らかい体の男などいない」
「――ぅっ!」
 
声を上げようとした唇を孔明のそれで覆われた。いきなり舌を入れられた。激しい口付けだった。
息ができなく苦しさにもがいた。
抗おうにも孔明の力に勝てない。悔しさに目じりに涙が浮かんできた。
そして、唇が離れた時、思わず咳き込んだ。
げほっ、と幾度も咳き込み、月英ははらはらと涙が零れていたことに気付いた。
孔明はそれをじっと見つめてくる。涙で歪む視界の中、月英も孔明を見た。
不思議と怖いという感情よりも不安が全身を駆け巡る。
孔明に何かあったのではないか―そんな不安が月英を苛む。
 
「月英」
「――・・・」
 
孔明の手が緩み、月英の目じりにたまっていた涙を拭った。
 
「こ、孔明さま、何かあったのですか?」
 
問いかけに孔明は答えない。
そのまま、今までただふとももと撫で上げるだけだった手が、奥へと触れてきた。
一瞬それに体が震えたが、月英は体を弛緩させ瞼を閉じ、孔明に身をゆだねる。
 
「抗わないのですか?」
「――それで孔明さまのお心が楽になるのであれば私は構いません」
「――ただの性欲のはけ口だとしても?」
「構いません。私は、孔明さまになら殺されても構いません」
 
ただ傍にいられるのならそれでもいい。
あさましい女の感情かもしれない。けれど、傍にいられるだけでいいのだ。
 
「私は、あなたには生きていて欲しい」
 
孔明の言葉に月英は瞼を開く。そこには苦しそうな孔明の顔があった。
 
「孔明様が新野に行かれて残された時、私は・・・心が死にそうでした」
「・・・」
「心が死んでしまっては肉体が生きている意味はありません。い、今は男とか女とかそういう以前に武人となり、孔明さまと殿がおつくりになる未来をただ守りたいのです。」
「――・・・」
「そして――」
「そして?」
 
月英は首を振る。何でもないと。
けれど、孔明は両手で月英の頬を覆ってくる。
 
「そして、何です?」
「何でもありません。本当に何でもないのです」
「そんなはずはないでしょう?言いなさい」
「――・・・」
 
首を振ろうにも孔明に抑えられている。月英の目じりに再び涙が溢れてきた。
それを孔明は唇で拭い取る。
 
「優しくしないでください!!」

月英は渾身の力を振りしぼって孔明を押しのける。孔明はそれに素直に応じ、月英を解放するが、その手を掴もうとしたことに月英は気付き、そのまま、立ち上がるともつれる足に一瞬ふらつきながらも、後ろを気にする余裕もないほどに、息を切らすひまもないほどにただただ走って逃げた。
 
――優しくなどして欲しくない。
 
もっともっと今は強くならないといけない。心身ともに。

いつか――。

孔明が後添いを娶り、実子に恵まれたとしても、嫉妬しないでいられるほどに強くならないといけないのだ。
 
彼は血を後世に残すべき人なのだから――。
 
彼の傍にいるということは、それをいつか見ないといけないのだから。



月英は、孔明の優しさから逃れるように走る。


 ※

 
何があったのですか、やみくもに走って部屋に駆け込んできた月英に趙雲は驚いた声を上げた。
裸足で髪も衣服も乱れ汚れているのだ。そして、憔悴しきっている。
 
「誰かに――」

そこまで言うと月英は首を振った。
そして、そのまま脱力したのか床にへたりこむ。
そっと近づき、その顔を覗き込むと、それに気付いたのか月英は深く俯き、その赤い髪で顔を隠してしまった。
趙雲は、とりあえず立たせようと月英の肩に触れて、まだ夏の名残がある時期であるというのにその衣服さえも冷たくなっていることに気付き、驚いた。

「誰とも会いませんでしたか?」

月英の首がかすかに動く。
今の月英は少年にも見えないだろうと趙雲は思った。
何かから逃げてきたのは一目瞭然だった。衣服が乱れ、普段補正して隠している女らしい肉体があらわになっている。
 
「何があったのか知りませんが、とりあえず湯につかった方がいい」
 
無理矢理立たせると立つことは立つが、足に力が入らないようでもつれるのを見て、趙雲はそのまま彼女を寝台に座らせると、
 
「今、湯をもらってきます。体を拭くだけでも違うでしょうから」
 
と部屋を出て行った。
ひとり残されて月英は、一気に脱力して寝台に倒れこんだ。倒れこんでから脳裏に浮かぶのは孔明の苦しそうな顔。
きっと何かあったのだろう。
それなのに、私は――・・・。
 
しばらくして湯の入った桶と手拭だけ月英の足元に置くと、趙雲は部屋を出て行った。
 
 ※
 
居室の前に趙雲が立っていた。孔明に気付くと、近づいてきて、
 
「月英殿に何かしたのはあなたですか?」
 
激しく尖っている声で、孔明を見据えてくる。
 
「――・・・」
「それならば、構わないのですよ。私が口を挟むことではない。ただ、別の男なら、彼女の身を預かっている者としては考えなければならない」
「月英はどうしてます?」
「気になるのならご自分で確かめたらどうです?今晩私はもう戻りませんのでどうぞ」
 
脇をすり抜けていく趙雲と入れ違うように孔明は、趙雲の部屋へと向う。
戸を叩いても返事はない。そっと中に入ると、部屋が区切られていた。奥に月英がいるらしくゆっくりと歩を進めると、寝台に横になる彼女を見つけた。
うつぶせになって寝ている。
髪で顔はまったく見えない。近づいて手でそっとその髪を除く。すると、月英がかすかに唸り声をあげた。ぐったりした顔が見えた。そして、小さく呟くように
 
「趙雲殿?」
 
とその唇が動いた。その瞬間、孔明の手が止まった。
特別深い意味などないのだろうと自分に言い聞かせる。この部屋に本来いるべき人物の名を月英が言っただけのこと。
なのに、鼓動が早鐘のように脈打っている。
月英にありえないと分かっているけれど、もしやふたりは――・・・。
 
「事実、今日、あなたのことで泣く彼女に胸を貸しました。とても細く、簡単にへし折れそうだった」
 
趙雲の言葉が蘇ってくる。
忘れることと思い出さないことは違うといわれた時だ。
一度は、趙雲は月英を抱きしめたことがあるということだ。
 
湧き上がる感情が嫉妬だと気付く。
けれど。
仮に――。
そうだとしてもそれは自分が招いたことなのだと冷静にそう思う自分もいる、と孔明は気付いた。
性欲の捌け口だとしても、殺されてもいいと月英は言った。
傍にいられないと心が死んでしまうと彼女は言った。
 
けれど。
孔明はぐっと拳を握り締めて踵を返す。今は私事で悩んでいる時ではない。
 
劉表の命はそろそろ消える。
今日もそのことで劉備とともに劉表の居城へ行ってきたばかりだった。
曹操はきっとそろそろ来る――・・・。


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