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そろそろ夕陽の頃だった。
太陽が放つ名残を残した光が執務室に差し込み、孔明は瞼を細めて顔を上げ、筆を置いた。
コトッ、と筆が置かれた気配に、姜維も作業を止める。
「眩しいですね」
そう言って窓に近づいた後、あっ、と小さく声を上げた。
無言のまま孔明が姜維を見ると、その視線に気付いた姜維は、
「月英殿の姿が見えたので」
と言う。孔明は一瞬の間の後に、そうですか、と言うと視線を落とし、机に置かれたいくつもの書簡のひとつを手に取り、目を通し始める。
姜維は孔明と月英とを交互に見てから、
「おふたりは結婚されて何年になるのですか?」
と問いかける。
魏に仕えていた姜維が蜀に下ってから半年が過ぎようとしていた。
当初は戸惑い、周囲といざこざを起こしたりもした姜維だったが、今は環境にも慣れて落ち着き、他人の私生活にまで興味を持てるほどの余裕が出来たらしい。
孔明の眉が歪んだのに姜維は気付いた。
師として姜維は孔明を尊敬している。高論卓説な孔明の傍で働き、その学識を得られることに感謝すらしている。けれど、無駄口をたたかない寡黙さに時折息が詰まるような思いがする。
今も「そうですか」という言葉しか聞いていない。
変なことは聞いていないはずなのに失言をした気分にさせられる。
思わず言い訳をするように、
「貞淑で、すばらしい女性ですよね、月英殿は。お綺麗だし」
と早口でまくしたてる。
すると、孔明はゆっくりと顔を上げて、姜維を見た。
「貴方にはそのような人に見えてますか?」
「えっ?はい」
そうですか、とひとり言のような呟きを落とした後、孔明は軽く口の端に苦笑を浮かべる。もしや夫婦仲がうまくいっていないのではないかと、と姜維は一瞬焦ったが、
「初めて会った時は、甘やかされたわがまま娘で見合いの席でも駄々をこねてました」
そう言う孔明に姜維は驚いた。
「私の言うことすべてに揚足をとろうとばかりしてました」
「――・・・想像できません」
姜維の知っている月英は、夫である孔明を支え従い、尽くす女性だ。
この半年の間に戦を共に戦ったことがある。
まるで味方が見放すような戦法を孔明は用いてきた。非常に分かりにくい戦法で討ち死にさえ覚悟した皆の心をほぐしたのは「あの人らしい戦法ですわ」と笑った月英の言葉だった。
その場に月英がいることを知っているからこそ、孔明もできた戦法だったのだろう。
この夫婦は信頼しあっている、姜維は心底そう感じた。
「すぐに拗ねて怒り――でも、確かに最近は・・・大人しいですね」
そこまで言うと、孔明は考え事をするように視線を空に浮かせた。
けれど、姜維は驚いてる様子に気付き、ククッと喉を揺らすように笑った。
確かに姜維は驚いた。けれど、それは――。
「承相は、月英殿のことになると饒舌になるんですね」
そう言われ、孔明の顔がほんの少しだけ赤くなったような気がしたのは、差し込む陽ざしのせいだけではないだろうと姜維は思った。
そして、孔明がほんの少し悔しそうな様子を見せたのも、きっと気のせいだろう。
※※
「おふたりは結婚されて何年になるのですか?」
姜維が聞いてきたのは何気ないこと。
けれど、そう聞かれて孔明は、とても不思議な気持ちになったことを、執務室でひとりになった今、思い出した。
月英と結婚して、とても長い時間が過ぎたような、逆に短い時間しか過ぎていないような混沌とした感覚。規則正しく月日は流れているのに、それに感覚がついていっていない。
それは出廬してから始まったような気がする。
月英と結婚し出廬するまでは、農耕を営んでいたこともあるせいか月日は明確に体に、感覚に息づいていた。
けれど、今は追われるように時間が過ぎていき、その中で、しなければならないことの多さに愕然とし、苛立ちを感じることさえある。
そんな時、触れてくるぬくもりに、そのぬくもりの主が刻む心地よい鼓動の音に、「今」という時間の大切さに気付かされる。
月英が武人として孔明の前に姿を現したのは長坂披の頃。
驚きはしなかった。あぁ、思ったより遅かったな、と思ったぐらいだった。それを月英に言うと、唇を尖らして子供のような顔をして拗ねた。
劉備に仕え始め、いくつもの戦を経験し――、承相と呼ばれるまでになった今。
自分の立場の変化に反比例するように、月英はおとなしくなっていったような気がしていた。
「承相の妻」らしい女性を演じているような、彼女らしさを閉ざしてしまっているような。
そんな気がする。
深い溜息をひとつ落とす。
それから、暗くなった外を一瞥してから、そろそろだな、と呟く。
しばらくして、足音が聞こえてきた。執務室近くになった頃、孔明は立ち上がると戸を開く。
すると、戸を叩こうとしていた月英は驚いたように、一歩後ずさる。
「びっくりしました。どちらか行かれるのですか?」
「いえ、貴方の足音が聞こえたので」
「珍しい。いつもはお仕事に集中していて私など気付かないのに」
ふふふっ、と月英が笑う。それに孔明は軽く頬を揺らす。
いつもは気付いていないのではなく、気付いていない振りをしているのだ。月英の気配に反応してしまうことを月英に知られるのは悔しいから、気付かない振りをする。執務室に入った月英の背に、
「初めて会った時、私を意気地なしと言いましたよね?」
そう言うと、月英はくるりと振り返って、不思議そうに孔明を見た。
「どうされたのですか?突然そんな昔のことを・・・」
「急に思い出したもので・・・。今はどうですか?」
小首を傾げて月英は、孔明を見つめてくる。じっと見つめた後、瞬きを一度してから、
「昔は居眠り意気地なし龍でしたが、今のように猪突猛進に休みなく突き進まれるのも困ります。学識広い孔明さまですが、ちょうどいい塩梅というものをご存知ないのですか?」
にこりと微笑みながらそんなことを言う。月英の返答に孔明は思わず破顔する。
「孔明さま?」
「安心しました」
「えっ?私はまったく安心できないのですが」
「貴方は、そのままでいてください」
「一体何がですか?」
その問いには孔明は答えず、ただただ嬉しそうに月英を見つめる。
沈黙をくちびるに滲ませて笑うばかりの孔明を不快に思うのか、月英は孔明から目を反らして、背を向ける。その背を後ろからそっと抱きしめると、意外にも素直に体を預けてきた。
「最近、貴方の皮肉った口調を聞いてない気がしたのですよ」
「――・・・聞いてないも何も・・・最近じゃふたりきりになることさえ珍しいじゃないですか」
「そうですか?」
「――・・・そうですよ。姜維殿がいらしてからは・・・特に・・」
ほんの少し月英を抱きしめる腕を緩め、くるりを向きを替えさせる。正面を向くと月英は、孔明を軽く睨みつける。
「もしかして妬いているのですか?」
「いけませんか?」
「――やけに素直ですね」
「素直じゃ駄目ですか?」
「いいえ、意外だっただけです」
ぷいっと顔を背けようとした月英の顎を掴み、そのまま、くちづける。
唇を離すと、物足りなそうな顔をしていた月英の頬を指の腹で撫でながら、
「久しぶりが執務室でもいいのですか?」
と耳元で囁くように言うと、月英に足を踏まれた。軽く孔明が呻くと月英が声を上げて笑った。
その笑顔を見ながら、孔明は初めて会った頃、師に甘えるように駄々をこねていた月英を思い出す。いつか自分も月英からあのような甘えを含んだ口調で話しかけられることがあるのだろうかと願っていたかつての自分。
今――本当の自分でいられるのは月英の前でだけかもしれない。そんなことを思った。
そして、月英も彼女らしくいられるのは自分の前だけなのかもしれない。
人の前では「承相の妻」らしく振舞ってくれていい。
けれど、自分の前でだけは、月英は月英であって欲しい。月英らしくあって欲しい。
そして、それはきっと月英も同じ気持ち。
太陽が放つ名残を残した光が執務室に差し込み、孔明は瞼を細めて顔を上げ、筆を置いた。
コトッ、と筆が置かれた気配に、姜維も作業を止める。
「眩しいですね」
そう言って窓に近づいた後、あっ、と小さく声を上げた。
無言のまま孔明が姜維を見ると、その視線に気付いた姜維は、
「月英殿の姿が見えたので」
と言う。孔明は一瞬の間の後に、そうですか、と言うと視線を落とし、机に置かれたいくつもの書簡のひとつを手に取り、目を通し始める。
姜維は孔明と月英とを交互に見てから、
「おふたりは結婚されて何年になるのですか?」
と問いかける。
魏に仕えていた姜維が蜀に下ってから半年が過ぎようとしていた。
当初は戸惑い、周囲といざこざを起こしたりもした姜維だったが、今は環境にも慣れて落ち着き、他人の私生活にまで興味を持てるほどの余裕が出来たらしい。
孔明の眉が歪んだのに姜維は気付いた。
師として姜維は孔明を尊敬している。高論卓説な孔明の傍で働き、その学識を得られることに感謝すらしている。けれど、無駄口をたたかない寡黙さに時折息が詰まるような思いがする。
今も「そうですか」という言葉しか聞いていない。
変なことは聞いていないはずなのに失言をした気分にさせられる。
思わず言い訳をするように、
「貞淑で、すばらしい女性ですよね、月英殿は。お綺麗だし」
と早口でまくしたてる。
すると、孔明はゆっくりと顔を上げて、姜維を見た。
「貴方にはそのような人に見えてますか?」
「えっ?はい」
そうですか、とひとり言のような呟きを落とした後、孔明は軽く口の端に苦笑を浮かべる。もしや夫婦仲がうまくいっていないのではないかと、と姜維は一瞬焦ったが、
「初めて会った時は、甘やかされたわがまま娘で見合いの席でも駄々をこねてました」
そう言う孔明に姜維は驚いた。
「私の言うことすべてに揚足をとろうとばかりしてました」
「――・・・想像できません」
姜維の知っている月英は、夫である孔明を支え従い、尽くす女性だ。
この半年の間に戦を共に戦ったことがある。
まるで味方が見放すような戦法を孔明は用いてきた。非常に分かりにくい戦法で討ち死にさえ覚悟した皆の心をほぐしたのは「あの人らしい戦法ですわ」と笑った月英の言葉だった。
その場に月英がいることを知っているからこそ、孔明もできた戦法だったのだろう。
この夫婦は信頼しあっている、姜維は心底そう感じた。
「すぐに拗ねて怒り――でも、確かに最近は・・・大人しいですね」
そこまで言うと、孔明は考え事をするように視線を空に浮かせた。
けれど、姜維は驚いてる様子に気付き、ククッと喉を揺らすように笑った。
確かに姜維は驚いた。けれど、それは――。
「承相は、月英殿のことになると饒舌になるんですね」
そう言われ、孔明の顔がほんの少しだけ赤くなったような気がしたのは、差し込む陽ざしのせいだけではないだろうと姜維は思った。
そして、孔明がほんの少し悔しそうな様子を見せたのも、きっと気のせいだろう。
※※
「おふたりは結婚されて何年になるのですか?」
姜維が聞いてきたのは何気ないこと。
けれど、そう聞かれて孔明は、とても不思議な気持ちになったことを、執務室でひとりになった今、思い出した。
月英と結婚して、とても長い時間が過ぎたような、逆に短い時間しか過ぎていないような混沌とした感覚。規則正しく月日は流れているのに、それに感覚がついていっていない。
それは出廬してから始まったような気がする。
月英と結婚し出廬するまでは、農耕を営んでいたこともあるせいか月日は明確に体に、感覚に息づいていた。
けれど、今は追われるように時間が過ぎていき、その中で、しなければならないことの多さに愕然とし、苛立ちを感じることさえある。
そんな時、触れてくるぬくもりに、そのぬくもりの主が刻む心地よい鼓動の音に、「今」という時間の大切さに気付かされる。
月英が武人として孔明の前に姿を現したのは長坂披の頃。
驚きはしなかった。あぁ、思ったより遅かったな、と思ったぐらいだった。それを月英に言うと、唇を尖らして子供のような顔をして拗ねた。
劉備に仕え始め、いくつもの戦を経験し――、承相と呼ばれるまでになった今。
自分の立場の変化に反比例するように、月英はおとなしくなっていったような気がしていた。
「承相の妻」らしい女性を演じているような、彼女らしさを閉ざしてしまっているような。
そんな気がする。
深い溜息をひとつ落とす。
それから、暗くなった外を一瞥してから、そろそろだな、と呟く。
しばらくして、足音が聞こえてきた。執務室近くになった頃、孔明は立ち上がると戸を開く。
すると、戸を叩こうとしていた月英は驚いたように、一歩後ずさる。
「びっくりしました。どちらか行かれるのですか?」
「いえ、貴方の足音が聞こえたので」
「珍しい。いつもはお仕事に集中していて私など気付かないのに」
ふふふっ、と月英が笑う。それに孔明は軽く頬を揺らす。
いつもは気付いていないのではなく、気付いていない振りをしているのだ。月英の気配に反応してしまうことを月英に知られるのは悔しいから、気付かない振りをする。執務室に入った月英の背に、
「初めて会った時、私を意気地なしと言いましたよね?」
そう言うと、月英はくるりと振り返って、不思議そうに孔明を見た。
「どうされたのですか?突然そんな昔のことを・・・」
「急に思い出したもので・・・。今はどうですか?」
小首を傾げて月英は、孔明を見つめてくる。じっと見つめた後、瞬きを一度してから、
「昔は居眠り意気地なし龍でしたが、今のように猪突猛進に休みなく突き進まれるのも困ります。学識広い孔明さまですが、ちょうどいい塩梅というものをご存知ないのですか?」
にこりと微笑みながらそんなことを言う。月英の返答に孔明は思わず破顔する。
「孔明さま?」
「安心しました」
「えっ?私はまったく安心できないのですが」
「貴方は、そのままでいてください」
「一体何がですか?」
その問いには孔明は答えず、ただただ嬉しそうに月英を見つめる。
沈黙をくちびるに滲ませて笑うばかりの孔明を不快に思うのか、月英は孔明から目を反らして、背を向ける。その背を後ろからそっと抱きしめると、意外にも素直に体を預けてきた。
「最近、貴方の皮肉った口調を聞いてない気がしたのですよ」
「――・・・聞いてないも何も・・・最近じゃふたりきりになることさえ珍しいじゃないですか」
「そうですか?」
「――・・・そうですよ。姜維殿がいらしてからは・・・特に・・」
ほんの少し月英を抱きしめる腕を緩め、くるりを向きを替えさせる。正面を向くと月英は、孔明を軽く睨みつける。
「もしかして妬いているのですか?」
「いけませんか?」
「――やけに素直ですね」
「素直じゃ駄目ですか?」
「いいえ、意外だっただけです」
ぷいっと顔を背けようとした月英の顎を掴み、そのまま、くちづける。
唇を離すと、物足りなそうな顔をしていた月英の頬を指の腹で撫でながら、
「久しぶりが執務室でもいいのですか?」
と耳元で囁くように言うと、月英に足を踏まれた。軽く孔明が呻くと月英が声を上げて笑った。
その笑顔を見ながら、孔明は初めて会った頃、師に甘えるように駄々をこねていた月英を思い出す。いつか自分も月英からあのような甘えを含んだ口調で話しかけられることがあるのだろうかと願っていたかつての自分。
今――本当の自分でいられるのは月英の前でだけかもしれない。そんなことを思った。
そして、月英も彼女らしくいられるのは自分の前だけなのかもしれない。
人の前では「承相の妻」らしく振舞ってくれていい。
けれど、自分の前でだけは、月英は月英であって欲しい。月英らしくあって欲しい。
そして、それはきっと月英も同じ気持ち。
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