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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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――可能ならば月英、あなたより先に死にたくありませんね。


まるで耳たぶに吐息が感じられるほど近くから、そんな言葉が聞こえたような気がして月英は瞬間振り返る。
けれど、そこには誰の姿もない。月英の視界に広がるのは誰もいない部屋。
しばらくそのまま部屋を見つめる。
ただ、髪が、風にひらひらとほつれるばかりの時間を過ごしてから、ゆっくりと瞬きをして息を吐き出す。
聞こえた声は孔明のものだった。
月英がそれを間違えるわけがないけれど、ほんの少しの違和感も感じた。
けれど、冷静に考えて、もう孔明はいないのだから空耳でしかない。
死んだのだと分かっている。頭では分かっている。
でも、感情が追いつかないことがあり、ぞっとするのだ。
まるで沼にでも突き落とされ、水に呑まれ、恐怖に呑まれ、全身に重く絡みつき、底へ底へ――果てのない深い底へ引きずりこまれていくかのように錯覚に苛まれる。
引きずり込まれる底から抜け出すことはあるのだろうか?
孔明の死は月英にとってはそういうものだった。
ぼんやりと孔明の死のことばかり考えていた時だった。


――可能ならば月英、あなたより先に死にたくありませんね。


孔明の声が聞こえたのは――。


かつて確かに孔明はそう言った。あれはいつのことだったか?
月英は記憶の糸をたぐらせてみる。
あぁ、そうだ。まだ草廬で暮らしていた頃のこと。
あれからいろいろなことがありすぎて忘れてしまっていた。
人間の記憶というのは不思議なものだ。
今になってあの孔明の言葉を思い出すなんてと月英は思う。


まだ――新婚ともいえるような頃のこと。
互いに若くて、手探りに互いのことを分かり合えてきた頃。
それはごく普通に夫婦が交わすような閨の睦言。


「孔明さまは、私より先に死ぬのと後に死ぬのとどちらがいいですか?」

月英の問いかけに孔明は、不器用に壊れものを抱くように――まだ慣れないものだから願うほどには力がこめられない、そんなもどがしさの中、


「――可能ならば月英、あなたより先に死にたくありませんね。」

ほんの少し考えた後、そう答えた。
どうしてですか、と触れそうなほど近くから月英の瞳が孔明を覗き込む。

「あなたを残していくことが心配なだけですよ。あなたの泣き顔は見たくない」
「死んでしまったのなら見ることができないじゃないですか?」
「――私は嫉妬深いですから先に死んでもあなたの傍にいますよ」
「そんな非現実はことを・・・」

月英がくすくすと笑うと孔明が恥ずかしそう頬を揺らした。
そんな孔明に月英は、抱きしめてくる腕に、おなじだけの強さの抱擁を返した。
額を合わせ微笑みあってから唇を重ねる。
孔明の手が怪しい動きをして、月英の息があがり始めた頃、

「月英はあなたは?」


孔明がそう言った。
孔明の体温だけを感じていて一瞬意味が分からなかった月英は、ただただ孔明を見つめる。
そんな月英を愛おしそうに、けれど、口角に意地悪に笑みを浮かべながら、

「死ぬのは私より先と後、どちらがいいですか?」
「――私は・・・」

私は孔明様の腕の中で死にたいです、そう言うと孔明がにやりと微笑んだ。

「今みたいにですか?」

そう言う孔明の背に軽く爪を立てると孔明が笑った。
それから、月英の頬を両手を包んで見つめあった後、そのまま月英を貫いてくる。
声をあげながら月英は、全身で孔明に包まれている幸福感に酔いしれた。



――あの頃。
死はまだまだ先のことだった。
人間がいつかは死ぬと分かっていても遠い遠い先のこと。
死も、乱世も、まだ自分の心の外のことだったから、そんな話もできたのだろう。


孔明さま・・・。

声に出して呼びかけてみる。


「傍にいてくれるのですか?」


問いかけても、声は部屋に広がる静寂の中に溶けていくだけ。
返答などないことは分かっている。
けれど、問いかけずにはいられなかった。


「互いに望んだことは叶えられなかったですね。」


そう呟いてから、ふっと思う。


――もしかして・・・。

孔明は先に死んでも傍にいると言った。
ならば、今も傍にいるのではないだろうか?
そして、自分が死ぬ時も必ず傍にいてくれるのではないだろうか?
その腕で包んでくれるのではないだろうか?


そんな非現実なことはありえない。

唇の端に苦笑を浮かべつつも、きっとそうだ、と信じる想いが深まるばかり。
孔明の死によって与えられた指先から命が流れ出ていくような儚さは消えることがないが、死んでも傍にいると言った孔明の言葉を思い出したことよって、不思議な安堵感が月英を温かく染めていく。

もう死んでもいいと思っている。
けれど、孔明がそれを許すはずなどないし、心配してくれる周囲の人々の顔が脳裏に浮かぶ。

ならば――。
傍にいる孔明に恥じることがないように、死んだ後に孔明に褒めてもらえるように、孔明の意思を引き継いで生きていかなければいけないのではないか?


人間の記憶力というのは不思議なものだ。
必要な時に必要なことを思い出せるようになっているのだな、と月英は妙に冷静に思いつつ、


――可能ならば月英、あなたより先に死にたくありませんね。


先ほど聞こえた孔明の声に違和感を感じた理由は、記憶の中の声ではなかったからだと気付いた。
あの頃の孔明の声ではなかった。まだあの頃は少年と青年の狭間の若い声をしていた。

聞こえた声は――・・・。


ふふふっ、と月英は微笑した。

月英が、孔明が死んでから初めて浮かべた微笑だった。


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