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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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英はいい瞳をしている。
兄者がそう言ったのも頷けると関羽は、倒しても倒しても挑んでくる月英を見て思った。
はじめその華奢な体系からすぐに脱落するだろうと思ったが、小隊を任せても大丈夫だろうとあの趙雲が言ったことを思い出す。
今日、月英が稽古をつけてくれとやってきた。
その顔は沈んでいたが、瞳だけは獰猛といえるぐらいに鈍い光を放っていた。
関羽は稽古に応じ、何かを忘れたがっている。そう思った。
それを関平がしゃがみこみながら見守っていると背後に影がさし、振り返ると星彩が立っていた。
星彩も英を見つめている。
 
「なぜ、軍師殿は英を拒むのだ?」
 
稽古終え、関羽が月英に問う。
 
「理由はいろいろあるかもしれませんが、私が劉表殿の次男の劉琦殿のいとこにあたることがひとつの理由にあると思います」
「ほぉ、それは知らなかった」
「私の母は、劉琮殿の母の姉でございます。その・・・、劉表さまは我が母の実家の蔡家から後添いをとってから・・・、いいように操られております。私は母を早くに亡くし、父はそんな蔡家と距離を置くようになっておりましたので会ったことはないのですが、後継者争いの中、その蔡家の縁者となりますと・・・劉備様にご迷惑を・・・」
「兄者は気にしないだろう」
 
月英が言葉を濁したのを受け取って関羽が言う。
 
「劉表殿は嗣子を次男の劉琮殿に決め、長男の劉掎殿は軍師殿に相談して、太守の席が空いていたからと襄陽から離れ、江夏に兵とともに落ちていったからな。一応、兄者が後見人となっている」
「えっ?」
「軍師殿に聞いていないのか?」
「話をすることもありません」
「そうなのか」
 
関羽が眉を歪ませる。
 
「関羽さまは、孔明さまを・・・」
「気に入らぬわけではない。ただ、軍師殿が距離を置こうとしているからな」
「そうなのですか?」
「軍師というのは兵に死地へ行けといわざるおえない立場だから、その方がいいと思っているのだろう。身内にも同じ気持ちであるのかもしれん。それより、風が冷たくなってきた。顔色が悪いから冷やすな」
「――ありがとうございます」
 
月英は関羽に頭を下げる。
この日、確かに頬に触れる風は冷たかった。
 
 ※
 
その知らせが届いたとき、九月になっていた。
劉表の容態が危ういことを知り、機をばかりに曹操軍が進軍してきた。
幾度も幾度も見た地図を孔明は再度見直す。もう地形は完璧に頭の中に入り込んでいるが、再度たたみ込む。軍議が開かれると月英はそれに出席する趙雲から聞いた。関平も参加しているようだ。
 
兵舎の中で、月英は座り込む、膝頭の上に頭を伏せた。
そのまま、瞼を閉じているとふっと頭を撫でられた。顔を上げると星彩だった。
「元気なさそうだから。この前のお返し」
無表情で言う星彩に月英は、口の端に笑みを浮かべて、ありがとう、と微笑んだ。
それからしばらくして珍しく乱雑な足音をたて趙雲が現れた。
 
「英は私とともに行動してもらいます」
 
趙雲が言葉に月英は頷く。
 
まずは趙雲と劉備が先鋒となり、負けた振りをして囲地へ曹操軍をおびき出し、関平らの軍が火を放つ。
四方八方は火の海となる中、逃げる曹操軍を関羽や張飛らの軍勢がしとめる。
それが孔明の作戦だという。
そして、その戦は成功を収め、曹操軍に勝利した。これを博望披の戦いという。
月英は初めて兵として戦に出た。
戦場を振り返って、月英は殺戮の後の血と残骸、燃え残る火、弓をいく本も体に受けて横たわる遺体、腕を亡くした遺体、どろりとどす黒い血が地を濡らすのを見た。
月英も、生き延びるために同じものをつくりだしてきた。だからこそ、目を覆ってはいけない。
今は乱世だ。知っていたはずなのに初めて思い知らされた気がした。
それをおさめようとしているのが劉備と孔明だ。
涙が一粒、また一粒と頬をつたう。震える手でそれを拭う。
そして、心底分かった。兵が民が、なぜ劉備を慕い、つき従うのか。
劉備は彼らにとって救済なのだ。彼の思い描く未来が彼らにとっての救済なのだ。
今は手を血に染めたとしても、それが劉備の思い描く未来のためなら。
そう思えるのだろう。それは一種の信仰と同じだ。
 
博望披の戦いの後。
視線に振り返ると孔明が立っていた。視線が交差したがすぐに反らされ、月英のいる反対側に歩いて行ってしまった。その孔明とすれ違うように趙雲が手に酒と布を持って歩いてきた。
すれ違い際に趙雲が孔明に話しかけ、孔明の羽扇が一瞬大きく揺れた。それを満足そうに趙雲は見ると、月英に近づくと、そっと手でついてくるように命じる。
そのまま、趙雲の部屋へと向かう。

「肩を見せなさい」

牀机に月英を座らせる。

「えっ?」
「怪我をしたでしょう?私はあなたが突かれるのを見ました」
「平気です」
「平気かどうかは診てみないと分からない。肩だけ出しなさい」

趙雲が背を向ける。今のうちに脱げということだろうと月英は、襟を緩まして怪我をした左肩だけ出すと、趙雲を呼ぶと、牀机に座る月英の前に膝をついて趙雲は、月英の腕を取り、怪我を覗き込む。

「これは平気ではない。出血はあまりないようですが逆にその方が怪我というのは怖い」
「はい」
 
月英の腕を離し、布を酒で浸すと、それで傷口を覆う。染みる痛みに声が洩れた。

「跡が残りますね」
「かまいません」

痛みに下唇をかみ締めながら唸るように月英は言う。

「軍師殿はかまうでしょう」
「――趙雲殿さえ誰にも言わなければばれません」

趙雲の手が器用に月英の肩に包帯を巻いていく。

「命をかけて戦に出て、体に傷を残してまで軍師殿の傍にいたいのですか?」
「――・・・はい。おろかだとは分かっております」
「なぜ、そこまでして?」
「離れている間、心が死にそうでした。ただ待つだけなど私には無理でした」
「心が死ぬ・・・」

趙雲が唸るように呟く。
月英の言葉に趙雲は考えこむように黙り込んだ後、ゆらりと瞳を揺らした。

「私にはそれが分からない。私は時間がたてばすぐに忘れてしまう」
「えっ?」
「恋をしたはずの相手でも時間や距離をおけばすぐに忘れてしまう。思い出してももう恋情のような感情は感じなくなってしまう。ただの思い出になってしまう」
「だから、好いた惚れたというのは、少し距離を置いてみると、ばかばかしく思えてくるとおっしゃっていたのですか?」
「ええ。だから、あなたが最初来た時も、ひと時の感情に流されているだけの女だとどこかで思ってました」
「否定はしません」
「いや、ひと時の感情に流されているだけならもうとっくに私が叩き出してる」

月英は、趙雲の瞳を覗き込む。

「趙雲殿はとても優しい。優しいけれど、本心を誰にもさらけ出そうとしていないのではないでしょうか?」

月英の言葉に、彼女の腕を掴んだままだった趙雲の指が微かに揺れた。

「確かにそうかもしれませんね」

趙雲がその口の端に苦笑を浮かべると、そっと月英から手を離した。

「それは女にとって辛いことです。いつかどうせ別れると分かっているそうされているのかもしれませんし、本心をさらけだそうと思えるだけの人とめぐり会えていないのかもしれない」
「どちらもです」

趙雲は、覗き込むように見てくる月英に笑みを返す。

「あなたが軍師殿という妻というカタチでなく出会えたのなら、私はあなたに恋していた」

そう言って趙雲は立ち上がると月英を見下ろしてきた。

「あなたなら、ずっと共にいられるでしょう。置いていかないですむ」

趙雲の言葉に月英は、唇に言葉が浮かばないまま数瞬、空白の心を抱えて彼を見つめていたが、すぐにその頬に笑みを浮かべる。

「私もです」

「嘘をおっしゃい。仮に私と先に出会ったとしてもあなたは軍師殿に惹かれたはずです」

趙雲が声をあげて笑う。
ありえないことだからこそふたりはこうして軽口がきけるのだ。笑い合った後、趙雲は唇に笑みを残したまま、視線を少し下げる。

「どうやって隠しているのだろうとは思っていたのですが」
「えっ?」
「この角度からだとよく分かりますね」
「何がです?」
「胸ですよ。そうやって晒できつく巻いていたのですね。なかなか大きそうで軍師殿が羨ましい」
「――趙雲殿!!!!」

急いで趙雲に背を向け、さらけ出したままだった左肩から、着替えを整えると喉を鳴らすような趙雲の笑い声が部屋に響いた。


 ※

博望披の戦いの大敗に曹操は五十万の大軍を荊州へと差し向けた。
劉表は亡くなり、その跡を継いだ月英のいとこの劉琮は、曹操に降伏したが、すぐに殺された。
それを聞いても月英は肉親であるのもかかわらず、悲しみはなかった。会ったこともない肉親よりも、今、自分の周囲の人々への情が勝った。
しかし、劉備を客将としていた劉表も亡くなり、荊州は曹操の手に落ちた。つまり、荊州は敵地となってしまったのだ。
劉備軍は劉備が後見人となっている劉表の長男、劉掎を頼り、江夏へと落ちることを決めたが、
急な撤退であるにもかかわらず、劉備を慕い従う10万近い人民が付き従ったため、移動がままならない状況が続いていた。
孔明は関羽に一足先に江夏に向かってもらい、劉掎へ援軍を頼んだ。
その関羽軍の中に月英は入れられた。身軽なのでいざというとき、早馬を走らせるのにいいだろうということだった。
 
「肩を怪我しているのだろう?」
 
関羽に言われ、月英は驚いた。

「えっ?」
「幾人の兵を見てみたから隠していても分かるものなのだ。下手に隠さない方が今後いい。己のためでもあり、仲間のためである」
「はい」
 
劉掎は劉備の依頼に快く応じ援軍を出した。
その援軍とともに軍船も用意し、劉備軍に元へ戻る。まず民を先行して逃してから、劉備軍の主な幕僚も江夏へと入り、本営を構えてすぐだ。
江東をおさめる孫権の使者という魚粛という男が訪ねてきて、劉備と孔明とで会ったらしい。
そして、しばらくすると孔明が単身で魚粛とともに江東へと向かうこととなった。
江東には孔明の異腹の兄がいると月英が聞いていた。まだ孔明が劉備に仕える前、兄弟はまめな手紙のやりとりを交わしており、兄からの手紙をよく孔明が見せてくれた。その手紙の末尾には必ずといっていいほどに江東でまた兄弟が揃い暮らそうと綴られていたことを思い出す。
 
孔明が江東へ向かう前日、呼び出された。

「怪我は大丈夫なのですか?」
その声音が、昔のように柔らかく月英は驚きつつ頷く。そんな彼女の驚きを孔明は受け止めて、そっと微笑む。

「月英、私は孫呉と同盟を結ぶために江東へ向かいます」
「――はい」
「帰ってきたら今後のことをきちんと話し合いましょう」
「離縁のことですか?」

孔明の眉がかすかに動き、それから、

「本当に離縁したいのですか?」

と問いかけてくる。

月英は黙った。孔明から視線を落とし、自分の足元を見つめて考える。
離縁したくないと嘆く自分と、子ができなかったのだから今が逆に離縁するにふさわしい時期なのではないかと考える自分が心のうちにいるのだ。

孔明は優しい。今は冷酷にふるまう時があっても、愛情深い人だということは誰よりも分かっている。

「私は、離縁したくありません」

孔明の言葉に月英は顔を上げる。視線が交差する。

「それだけを忘れないでください」

それだけ言うと、孔明は月英の脇をすり抜けていく。
 


孔明が江東へ向かい数日たった頃――。
最初は痛みが薄かった肩の傷が疼くようになっていた。毎日自分で消毒していて気付く。化膿しているのだと。
突かれた槍がさびていたのかもしれない。
月英はそれを隠しつつ与えられた任務をこなしていた。何かしている時は忘れられるのだ。
けれど、じょじょに痛みはひどくなってゆく。
痛みに膝が折れ、全身が震え寒ささえ感じ始めた。
駄目だ、と思った時には膝をついて倒れこんでいた。

「英、どうした?!」

関平が異変に気付き近づいて来たと思った瞬間、視界が歪んで、意識が、ふっ・・・と遠のき、ゆらりと体が揺れて、
そのまま記憶が途切れた。


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