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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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――諸葛亮。

劉備の声がして、趙雲は廊下で歩を止めた。渡り廊下を曲がった角に劉備と孔明がいるようだ。別に隠れる必要はないが、その場に立ち尽くした。

――なにか?

孔明の低い声が聞こえてきた。

――劉璋殿を攻めたこととといい、いま高祖を引き合いに出すことといい・・・。
――心ない者は、お前こそが漢の逆臣などと言っておる。それが私には悲しくてならん。

劉備の言葉に趙雲は、そっと瞼を伏せる。その噂は趙雲の耳にも入っていた。
おそらく月英の耳にも届いていることだろう。

――私の風評など・・・殿のそのお言葉で十分に報われました。乱世の道は清らかではありません。
――世の誇りは私が受け止めます。殿は王道を堂々とお進みください。

諸葛亮・・・、そう言う劉備の声は苦渋の色が滲じみ、力なく弱々しいものだった。

――殿。

劉備の声とは異なり、孔明の声はほんのかすかに笑いが滲んでいるように趙雲には聞こえた。

――私の風評など本当にお気になさらないでください。元より覚悟の上です。それに・・・。
――私の受ける恨み、憤り、そして犠牲、すべてを妻が共に背負うと言ってくれています。私には共にそれらをすべて共有してくれる妻がいますので、気にもなりません。私には過ぎたる妻です。

ははっ、と劉備が笑ったのが分かった。それから、

――お前にのろけられるとは思いもしなかった。

軽く孔明も笑っている気配を感じ、趙雲も頬にほんの少し苦笑に似た笑みを浮かべると、踵を返す。そして、


「これで良かったのだ」


声では出さず、口腔で呟く。これで良かったのだ。
孔明と月英が正式な夫婦となってから、ずっと胸の中で炭のようにずっと燻っていたものが消えた気がした。
軍師の妻として、そして、ひとりの武将として戦場に出る月英を見るたびに、彼女が怪我を負うたびに、本当にこれで良かったのか、と燻っていた女々しい感傷。それが今、消えた気がした。

表面上、よく分からない夫婦だった。
孔明は相変わらず多忙で、月英はその補佐のような役割を果たすこともあり、夫婦というよりも同僚のようなふたり。
夫婦生活が想像できないというか。仕事以外の会話があるのかさえ不思議なふたりに思えていた。
そんなふたりを見ていると、月英は幸せなのだろうか、と趙雲には思えて仕方がなかった。

けれど――。

ふたりは、深いもので繋がっているのだろう。


ほんの少し悔しいような気がした。それを振り払うように少し乱暴に歩いていると、前方から月英が現れた。
趙雲に気付いたらしく、駆け寄ってきたので彼女が唇が開くよりも早く、


「ご主人は廊下を曲がった所で殿と話しておられましたよ」


と言う。それに月英は、少し驚いたような顔をしたかと思うと唇を尖らせて、拗ねたように、

「私は何もまだ言ってませんよ」
「でも、ご主人を探していたのでしょう?」

それはそうですけど・・・、とぷいっと月英は趙雲から顔を反らした。
そんな月英に趙雲は思わず吹き出すと、キッと睨まれた。睨まれても趙雲は笑いを止めることができない。

「趙雲殿!」
「すみません」

失礼な人、と言い捨てて脇をすり抜けて、月英が去ろうとするので、その背を呼び止める。

「何ですか?」

眉を顰める月英に、

「今、幸せですか?」

と問いかけると、今までの怒りなど一瞬にして忘れたのか、ぽかんとした顔をする。
幸せですか、と再び問いかけると、月英は小首を傾げて、

「さぁ、どうでしょう?私は欲張りなのでもっと欲しいものがたくさんありますので、十分には幸せではありませんよ」

と答える。

「欲しいもの?」
「ええ。平和な世も欲しいですし、孔明さまの子供も欲しいですし、」
「――・・・子供・・・ですか?」
「なんで趙雲殿が赤くなるんですか?」

いやらしい、月英が言うと、いやらしいと言う人の方がいやらしいですよ、と趙雲が反論する。
それから、思わずふたりでぷっと吹き出して、声を上げて笑う。
笑う趙雲を見て月英は、かつて趙雲に恋していた日々を思い出した。
それは趙雲も同じだったらしく、互いにはにかみながらも頬に笑みを浮かべ、照れくささに、じゃあ、と言って別れる。

――趙雲殿は・・・。

私の初恋だった。あざやかすぎるほどに澄んだ初恋だったと月英は思う。
けれど、それは憧れでしかなかったのではないかと今は思う。武将として名高い人へと憧れ。
そんな人に求めてもらえたことはただ単純に嬉しかった。
趙雲への想いよりも強く、熱く、恋しくて、けれど、心配ばかりしてしまうそんな想いが今は胸にある。
趙雲と別れて、廊下を早足で歩いていると、角から孔明が顔を出した。

「孔明さま!」

声をかけると、月英ですか、と孔明が言う。月英は孔明の脇に駆け寄ると、にこりと微笑む。

「どうかしましたか?」
「何かないと会いに来てはいけませんか?」
「いえ・・・」
「小言は言いませんよ、今日は」

月英の言葉に、孔明はくくっと喉を揺らして笑う。今日はなんだか人に笑われてばかりだ、月英はそう思った。
それから、孔明をちらりと見ると、かつて父が

「お前がただ屋敷の奥で、大人しくしていられる妻になるとは思えないから、彼と一緒ならば少しは安心していられる」

と言ったことを思い出した。あの方と一緒になるということが、お父様を安心させるとは思えないのですが、と反論した
月英に父は今に分かるさ、と含み笑いをした。
今となって、父の言葉の意味がほんの少し分かるような気がしてきていた。
きっと父は孔明の、夢中になると寝食も忘れて没頭する性格を水鏡から聞いて知っていたのだろう。
そんな無茶をする人の傍にいると月英は、自分が無茶な行動は出来なくなると思った。
そして、気付けは小言ばかり言ってしまう。
急に黙った月英に笑ったことを怒ったのだと思ったらしい孔明は、機嫌をとるように、

「今日は屋敷に戻ります」

と告げると、ぱぁと月英の顔が喜びの色が浮かぶ。普段は澄ました顔をしているかと思うと子供のような表情も見せる。
そんな月英を、孔明はいまだによく分からないと思うことがある。

あの晩――。
書庫の整理をしていた月英の瞼の上に書が落ちてきて、彼女が怪我をしたあの日。
趙雲と月英の間に何が話されたのかは今でも分からないし、おそらく知ることはないだろう。
落ち着かない気持ちを持て余し、仕事に戻る気にもなれず屋敷に帰った後、軟膏を渡しながら塗るように月英に言うと、

「塗ってくれませんか?」

そんなことを言ってきた。少し驚きながら月英を見つめると、にこりとして軟膏を孔明に返してきた。
お願いします、と言って瞼を閉じるので、指の腹で軟膏をすくい取ると、そっと月英の瞼の上の傷に塗る。小さな傷なのでほんの少し触れただけで終わった。

「終わりましたよ」

そう言うと、瞼を開いた月英は、

「契約を解除していただきたいのですが」

と流れる口上のように言う。かつて我々の婚姻は契約ということで、と告げたことを言っているのだろうと思い、
構いませんが、と答えると月英は、

「私は契約ではなく・・・、約束が欲しくなりました」

小さな、けれど、しっかりとした口調で孔明を真っ直ぐに見つめてくる。
約束ですか、と孔明は意味が分からずに、月英の言葉を繰り返すと、ええ、と月英が頷いた。

「私を・・・妻にすると約束してくださいませんか?」
「えっ・・・?」
「私では駄目ですか?」

それまで、孔明は月英と趙雲がなんだかんだいって結ばれるものだと思っていたので、月英との縁談の話を真面目に考えたことはなかった。

「駄目ですか?」
「正直言いますと、貴方とのことを真剣に考えたことはありませんでした」
「――・・・そうだとは思ってました」

では、これから考えてくださいますか?

月英はそう言うけれど、結局月英と趙雲のふたりはまとまることはなかったということだけは分かっている。
そうなると、月英に残されている道は――結局自分と結婚し、劉備軍に残ることというものしかないのではないだろうか。

孔明は、改めて月英を見つめる。
初めて見たとき、精巧な人形のようだと思えた彼女だけど、誰よりも温かい血が通った人間のように今は思える。


「私は守っているのではなく、貴方が受けるであろう闇に一緒に落ちていこうと思っただけです」

月英はそう言った。
孔明は、月英は自分が受けるであろう恨み、憤り、そして犠牲などを共に受けると言っていたのだろう。

孔明は思うよりも早く手を伸ばして、そっと月英の赤い髪に初めて触れる。月英が驚いたように、びくんと体を揺らしたが、逃げることはなかった。赤い髪を梳くようにした後、指で絡め取ると、

「私などでいいのですか?」

と問いかけると月英は頷くと、そっと孔明を見上げて、

「私は、貴方がいいんです!」

躊躇いがちに孔明の裾をギュッと掴んできた。そんな月英の手に孔明は自分の手を重ねて、

「約束しましょう。きっと貴方は私には過ぎたる妻でしょうね」

と月英に告げた。すると、月英は破顔したかと思うと急に俯いて両手で頬を隠す。恥ずかしくなったらしい。
積極的にきたかと思うと、急に恥らう。不思議な女、と孔明は思ったことを思い出した。


あの頃――。
特別、月英を愛おしく思うことはなかった。
けれど、今は月英が傍にいることが当たり前になって、彼女の小言がないと時折寂しくなることさえあるのだから困る。
そして、今なら趙雲が言った、

「蔦が彼女を守っているのではなく、彼女が蔦を守っている、そういうことなのだと分かりました。そして、その蔦は貴方ですよ。」

その言葉の意味が分かる気がしていた。確かに、彼女の守られているのかも知れない。
そう思いながら、隣を歩く月英を見つめると、その視線に気付いた月英が見上げてきたので、そっとその手を取り、指を絡めるようにして繋ぐ。

「孔明さまっ!」
「誰もいませんよ」

さらりとそう孔明が言うと月英は、孔明の肩にほんの少しだけ近づくと、指を絡め合わせた手をそっと見下ろす。
初めて会った時、怖い、と感じた人だったと月英は思う。
ざらりとした何かが胸に生まれて、月英は落ち着かない気持ちなった。足元から何か絡め取られ落ちてしまうような恐怖心があった。
けれど――。
落ちてしまえばそこはあったのは不思議な幸福感。

きっと――。私はこの人に、絡め取られ続けるのだろう。


月英がグッと絡め合わせた指に力を込めると、孔明が「痛いですよ」と言うので月英は声を上げて笑った。



<終わり>

】【番外編
 

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