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「ここにおられましたか」
背に、そう声をかけると彼女―月英―は、驚いたように振り返り、一瞬不安そうに瞳を揺らめかせた。
その様子に孔明は、弟妹を思い出した。
悪さをしたのがばれた時、彼らはそんな目をしていた。
自分に趙雲とふたりでいたところを見られたのが気まずいのか。孔明は口の端に笑みを浮かべる。
あの時、ふたりが何を話していたのかははっきりとは聞こえなかったが、
「あなたを追ってきたわけじゃないわ。一度実践の場に出てみたかったの。父も許してくれたわ」
「結婚するわ」
「あなたが私の何を知っているとでもいうの?もう関係のない女でしょう?」
そんな意地っ張りな矢を射るような言葉だけが洩れてきた。
時としてよく通る声というのはいいのか悪いのか。
「この此度の戦、あなたのお陰で切り抜けられました。感謝します」
孔明の言葉に月英はふるふると小さく首を振る。
孔明は月英を知っていた。
なにせ彼女の父が師を通して内々に縁談を持ち込んできていたのだから。
最初は返事を保留にした。
師の友人ともなると袖にもできない。だからといって妻帯するつもりもない。
するとすぐに月英の父は、直接会いにきた。
孔明の目に、黄承彦は何かに怒り、そして、焦っているように見えた。だから、誘導尋問のようにして分かったことは、月英にはどうやら男がいるらしいということ。そうなると孔明とていい気がしない。
元々頻繁に屋敷を抜け出す娘だったが、それについてはもう半分諦めていたものの、今回は様子がいつもと違うというのだ。黄承彦は嫁入り前の娘に男がいることに怒っているわけでもないようだった。
黄承彦が怒っているのは、とても単純なこと。けれど、娘を思う親としては当然のこと。そんな愚痴に近い話を聞きつつ孔明は、内心うんざりしていた。
好いた男が別にいる女を娶るなど面倒なことはしたくないというのが本音である。
だから、断った。
この縁談の話も、孔明が三顧の礼をもって劉備に仕えることになった時、自然消滅したものだと思っていた。
けれど、黄承彦は月英を送り込んできた。
黄承彦は劉備に傾倒している様子だったが、彼の危機に娘を送り込んできただけとは思えない。
盲目なまでの傾倒ではない。
孔明は改めて月英を見る。
初めてさわさわと風に揺れる赤い髪の持ち主である彼女を見た時、精巧な人形のようだと思った。
そして、これがあの月英殿かと思い、じっと見つめると彼女はたじろぎもせずに自分の視線に応じた。
意思の強そうな瞳をしている。
けれど、声をかけると驚いたように怯んだ。
しばし見つめ合ったが、そっと月英から目を反らしてきた。
何を驚くことがあるのだろう、と思ったが、その答えは簡単なもの。
孔明と趙雲の声が似ているから月英は驚いたのだろう。
ふたりがどのようにして知り合ったのかは分からない。
黄承彦は劉備と会っているのだから、その関係で知り合い、そして、互いに特別な存在となったのだろう。
劉備に仕え始めたばかりの頃、
「趙雲に女ができたらしい。頻繁に会いに行くぐらいだからな。身を固める決心でもしたのかもしれん」
劉備がそう軽口をたたいたことがあったのを思い出す。
頻繁に会いに行っていた相手が月英というわけか。
かすかに怯える月英に優しく問いかける。
「劉備さまの目指す世とは如何なるものなのですか?」
月英の問いかけに孔明は一度瞬きをしてから、
みんなが笑っている・・・、月英はそう呟きを落とす。
それから、早くそんな誰もが幸せになれる世になればいいのに、と小さく言ったのを孔明は聞いた。
その言葉が孔明の胸に突いてきた。
誰もが幸せになれる世か、孔明は口腔で彼女の言葉を繰り返す。
精巧な人形のようなその顔を見ながら、孔明は思う。
黄承彦は劉備に盲目ではないが傾倒しており、その配下で信頼厚い趙雲ならば、月英の相手として不足は
ないだろう。
なにせ、黄承彦が怒っている理由は単純なもの。その気持ちはなんとなく分かる。
「月英殿」
呼びかけると彼女は、すっと顔を上げて孔明を見つめてきた。
「意地を張っていても何にもならないですよ」
孔明の言葉の意味が分からないとばかりに月英は小首を傾げる。
「趙雲殿とのこと、私から貴方のお父上にお話しましょうか?もちろん、貴方が望めばですが」
孔明の言葉に月英は、驚き口を開いたが、言葉が出てこないらしく、ただただぽかんと孔明を見つめてきた。しばし言葉を失っていた月英だったが、それを面白がるように孔明が頬を揺らすと我に返ったのだろうが、
「えっ・・・、あの・・・。」
と、考えるよりも先に出たらしい「あの・・・・」。
月英は、開いてしまった唇と、孔明の言葉の意味をどうしたものかと戸惑いが隠せない様子だ。
「仲違いしている様子でしたが趙雲殿と恋仲なのでしょう?」
「――・・・」
「貴方は何も聞いていないようだが、私は貴方の父上を存じ上げてます」
「えっ?父をですか?」
「ええ。貴方との縁談を私に持ちかけました故」
一瞬の間の後、月英は、えぇ、と大きな驚きの声を上げた。
その様子が面白く、孔明は喉を揺らして、くくっと笑いを洩らす。
「殿の配下の趙雲殿ならば、貴方の父上もお許しになるかと思いますよ。貴方に恋仲の男性がいることにも気付いていらした。そのことに怒ってはいましたが、それは簡単な理由ですよ」
いかがしますか?孔明の問いかけに月英は、軍師殿・・・と小さな呟きを落として戸惑いを隠すかのように、下唇をかみ締めた。
※
雨だ。
趙雲は、ぽつりと頬に触れた雫に顔を上げる。
風が冷たい。そっと前方に手を差し伸べると、掌に雨粒が落ちてきた。
これは強くなるだろう、と膜の張ったような意識の中、思った。
曹操軍の追っ手がないか偵察してくると行って出てきたが、その様子は感じられなかった。
秋の初めだというのに吐く息が白くなっている。
はぁ・・・と息を吐き落として、
「月英殿は、返答は貴方に任せるとのことです」
孔明の言葉が脳裏に浮かんで、すっと・・・と消えた。
孔明が新野に来た頃から、年齢が近いこともあり趙雲から話しかけることは多かったが、その逆はなかった。
今日は珍しく孔明から話しかけられたと思ったら――。
あの軍師である諸葛孔明という男は――分からない。趙雲は溜息を落とす。
あくまで偶然が重なっただけだと言ってはいたが、何もかも見透かされているようにも思えてしまう。
孔明は、あまり自分から喋る性質ではない。
話しかければ応じるし、軽口程度のことは口にして人を笑わすことさえもある。
一見、人の深層に踏み込まない、人との接触に希薄な印象さえあるのだが、その静かな目で何もかもを見透かしているのではないと思わせるような不思議なところがあった。
良い友人になれたら、と思っていたのだけれど――。
「結婚するわ」
月英の言葉が胸に蘇って、奥の方からちくりちくりと刺すような痛みがぶり返してくる。
まさかその結婚相手が孔明だったとは、趙雲は思いもしなかった。
孔明自身は、あまり乗り気な様子ではなかったし、月英も知らない話だったはずだとは言っていたが、はたしてそれは本当なのかと疑念の気持ちさえ生まれる。
彼の師が月英の父と友人で、持ち込まれた縁談だと言っていた。
つまり、孔明は彼女の父に見込まれている人物だということ。
できたら、自分の知らない人物と――幸せになってくれたのなら、それでいい。
自分の知らない男と――幸せになってくれ。
そう思っていたというのに――・・・。溜息が自然と洩れる。
「月英殿の父上は、殿の配下である貴方ならば反対しないでしょう。私が話をつけてもいい」
孔明は、ご親切にもそう言った。それから、
「月英殿に恋仲の男がいることに黄氏は気付かれていた。それをただ怒っているわけではなく、その相手が月英を妻にと望むのならばなぜ自分の元を訪れてこないのか、会いにこないということはただの遊びなのではないかと、と怒っているだけのことです。貴方が彼女にただの遊びに近づいたのは思えない」
とも言った。その言葉に月英が自分に言った、
「あなたが私の何を知っているとでもいうの?」
それを思い出し、同じ言葉を孔明に浴びせかけたい気持ちになった。
軍師殿、貴方は私の何を知ってそんなことを言っているのだ。
私がどんな気持ちで彼女を手離したのか分かっていない。
けれど、口には出さないが、顔には出ていたかもしれない。知らなくて当然のことだというのに。
そんな趙雲の視線を孔明はさらりと受け流した。そんな態度に軽くむかっ腹がたった。
ぽつりぽつりと落ちてくる雨粒が増えてきた。
趙雲は、再度息を吐き落とすと、雨宿りができる場所を探し彷徨う。
「月英殿にも同じ話をしました。彼女の返答は、先に言った通りです」
つまりは、自分に任せる――そういうことか。
趙雲は、体は雨に濡れ冷えていくけれど、胸の奥底から、月英を抱きしめた時の温もりが蘇ってきた。
それは妙に現実味をおびて、趙雲の体にまとわりつく。
抱きしめてみれば小さく感じられる華奢な体。
赤い髪に鼻先をうずめれば漂う彼女の香り――。香などではない彼女自身の香り。
唇の柔らかさ。口付けし、離すと急に寂しいやるせなさと恥ずかしそうな彼女の様子に再度口付けてしまうその唇。
月英は孔明と話した後、すぐに戻ってしまったという。
「私が断れば、軍師殿は彼女を娶りますか?」
そう問いかけると孔明は口の端に笑いを浮かべて、
「さぁ・・・。今はそれどころではありません故」
さらりと受け流した。
確かに私事にかまけていられる時期ではない。ならば――と思った時、
「では、逆に問います。貴方は私が月英殿を抱いてもよろしいというのですか?娶るとはそういうことですよ」
と、まるで何でもないことかのように言いながらも、趙雲の肩に楔のような重荷を背負わせる。
趙雲は、両手で髪をかき上げ、ぐしゃぐしゃとかきむしる。
月英の――。
月英の本心はどうなのだろうか?
自分の妻になりたいのか、それとも、そうでないのか。
一度手離した華は、蔦に絡まって解くことができないもののように思えた。
そして、華に絡みついているかのように見えるその蔦は、本当は華を守っているのではないか――。
「月英」
口に出してその名を呼ぶ。
気付けは、雨なのか涙なのか分からないものが頬を伝っていた。
分からない。分からないのだ。
自分がどうすべきなのか、趙雲は分からないと思った。
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