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「喧嘩でもしたのですか?」
趙雲の声に、孔明はほんの少しだけ眉を顰めた。
けれど、趙雲はそんな孔明には気付かずに、廊の先を歩く月英の背を見ている様子だった。
孔明が声をかけると、月英はぷいっと顔を反らして全身で怒りを表現して、早足で去ってしまったのだ。
その様子を趙雲に見られたのかと思うと孔明は、ばつが悪い思いがした。
むなしく空に浮いたままの手をそっと下げると孔明は、
「何でもありませんよ」
と言う。
そうですか、とのんきに言う趙雲に腹がたつが、そっと瞼を伏せて、苛立ちを受け流す。
「でも、本気で怒っているわけではないでしょう」
趙雲が、そう言うので孔明は彼を見る。
「本気で怒っていたら、ああいう態度ではなく、もっと冷たい態度を見せますよ」
経験者は言うことが違いますね、喉元まで出かかった言葉を孔明は飲み込む。
今はこの男の存在が腹が立つと孔明は、内心再び苛立つ始めた。
月英が怒っているのは自分の失言が原因で、それはそれはあくまで自分の勘違いで、趙雲に怒りを感じるのもおかしな話なのだけれど。
「どちらへ?」
「急ぎの決裁が残ってますので仕事に戻りますが」
「そうですか、大変ですね」
「手伝ってくださってもかまいませんよ」
「いや・・・、小難しい頭の使う仕事は私には向いてません」
早く仲直りできるといいですね、にこりとそう言って去って行く趙雲の背を孔明は、ここぞとばかりに睨みつけた。月英との仲を取り持ってやろうとした時は、分からないとかはぐらかしてばかりいたくせに、今となっては惜しい気持ちがあるのか、時折自分の方が月英のことを知っていると匂わせるようなことを言う。
そのたびに、腹の奥底から苦々しい何かを感じる。
しかし、思ったとしても、口に出すべきではなかった。自分の失言を思い出し孔明は、深い後悔をした。
※
「初めて・・・なのですか?」
思わず驚いて洩れた言葉が、失言であったと孔明が気付いた時には遅かった。
破瓜の痛みを耐えながら涙を浮かべていた月英は、孔明の言葉に、えっと驚きの声を落とした。
一瞬の間の後、今までとは違う涙をぼろぼろと流し始め、今まで抱きついていた孔明の肩を押しやるようにして、孔明から逃れようとし始めた。
慌てて月英を押さえ込もうとするが、彼女の瞳に滲む哀しみと怒りに、そっとその身を離す。
このままことを続行してしまえば、それは結果として彼女を心身ともに深く傷つけるだけでしかないだろう。
孔明が力を緩め、月英から離れると、月英はくるりと孔明から背を向け、必死で床に散らばった衣服をかき集め、孔明の呼び止める声など聞こえないかのように部屋から出て行ってしまった。
てっきり趙雲と関係を持っていたと孔明は思っていた。だから、月英が処女だったことに驚いた。申し訳ないことを言ってしまったとは思うが、言ってしまった言葉は取り返せない。
苦手だ、と孔明は思った。男女のことは苦手だ、と孔明はつくづく思った。
仕事では思い浮かぶ策も月英相手には何も浮かばない。
さて――どうしたらいいのだろうか。さっぱり分からない。
孔明と月英の婚姻において、儀礼的なものはほぼなかった。
月英が親元をすでに離れ孔明とともに暮らしていたこともあり、周囲は事実婚として前から見なしていた。
劉備がけじめも必要だろうと簡素だが宴を開いてくれ、その晩のことだった――。
夫婦となることをふたりで決めたはずなのだが、いざとなると機会を失いがちだったのでいい節目になるだろうと、その日初めて同衾したのだが。
本当の夫婦となるはずだった日なのだか――。
最初からこれでやっていけるのだろうか、やはり彼女には趙雲殿の方が――・・・。
自らの身支度を整えながら、孔明はそう思うばかりだった。
※
執務室に戻ると、月英の姿があった。
日中の執務室は文官や女官などの出入りも激しい。孔明が戻って来たのに気付いた月英は、さも何もなかったかのような顔をして清書を頼んでいたいくつかの書簡を孔明に渡してきた。
あれから、数日が過ぎており、昼間他の者がいるときの月英に変わった様子はない。
「もう出来たのですか?」
「はい。確認願います」
書簡を受け取りひとつひとつ中身を確認しながら、その読みやすい細い筆跡を眺める。
戦場での活躍や軍議での言動など普段からどこか男勝りだか、筆跡はとても女性らしい。
筆跡は人格を表すという。月英の細い筆跡を見ながら、孔明は実は月英は繊細な神経の持ち主なのかもしれないと思った。
「他に何かできることはありますか?」
「――今のところは大丈夫です。またお願いするかと思いますが今は休んでください。疲れたでしょう」
これだけの書簡を短期間で清書したということはとても疲れているだろう、孔明はそう思った。
月英は、分かりました、と小さな声で言って踵を返して数歩歩いたかと急に振り返った。
「何か?」
「――いいえ。また何か私にできることがありましたら声をかけてください」
「ありがとうございます」
あの、と月英が何か言いかけたので孔明は月英を見るが、彼女が小さく首を振り、何でもありません、と言い終わる前に執務室を後にしようと扉に向かった時、文官が飛び込んできた。
何事かと月英は、ぱっと扉から身を翻し、その文官が何やら孔明に訴えているのを見る。内容はあまり聞こえない。けれど、何か大変なことが起きたらしいということだけは分かった。
「殿の所へ行きます」
孔明はそう言うと、慌しく執務室から出て行ってしまう。月英の姿などまったくその視界には入っていない様子で。
※
――大丈夫だろうか。
と月英は思う。
ひとり、夜更けに小さな灯りの中に背筋を伸ばして座りながら。
――ちゃんと食べているのだろうか。寝ているのだろうか。
まるで子供のことを思う母のような思いに月英は、溜息を洩らす。
成人男性に心配することではないとは分かっているのだけれど。
孔明は、文官が慌てて何かを報告してきた後、慌しく劉備の元に行ったかと思うと、視察だといって行き先も告げないままどこかに行ってしまった。
10日前後で戻るだろうと聞かれていたが、10日過ぎても帰ってこない。
何があったのかは機密事項なのか月英の耳には入ってこないのが、また悔しい。
けれど――。
帰ってきたらきたらでどう反応すべきなのかが分からないのだ。
「初めて・・・なのですか?」
孔明に言われた言葉を思い出すと、ぎりっと下唇をかみ締めて悔しいような哀しいようなそんな感情の入り混じった形容したがい思いに苛まれる。
その言葉を聞く瞬間まで、月英は幸せだと思っていた。
孔明はとても優しかったし、この痛みも孔明とだから耐えられる、そんな風に思っていたのだけれど――。
孔明は違ったということなのか?
趙雲と体の関係があったと思われていたことが月英には、哀しかった。
けれど、そう勘違いされても仕方のないことなのかもしれない、そんな諦めに近い思いもある。
あの時――「初めて・・・なのですか?」と言われた時、逃げ出さなければ良かったのだろうか?
孔明は余計なことは言わない性分だと分かっている。
そんな彼の口から思わず出た言葉なのだから、よほど意外なことだったのだろう。
ずっと孔明は趙雲との仲を取り持とうとしてくれていた。
結局うまくいかなかった自分を孔明は拾ってくれた、ということなのだろうか?
いろいろな考えがぐるぐる浮かんでは月英の頭を駆け巡る。
あぁ、と思わず声を洩らす。
それから、いろいろなことに悔しさを感じるが、孔明が何も気にしていない様子なのも悔しいのだ。
誰もいないとき、声をかけられそうになってすっと逃げてしまったのは自分だけれど、初夜から逃げ出すような女は必要ないとか、逆に仕事の話しかされなかったのだとしたらそれはそれで悔しいのだ。
清書した書簡を持って行った時、
「今は休んでください。疲れたでしょう」
そう孔明に言われた。それは諸葛さまの方です、本当はそう言いたかった。
言えば、口角をほんの少しだけ上げて困ったように笑っただろう。いつもならそう言えるのにあの日は駄目だった。
今、一番悔しいのは、らしくない自分だった。
「あぁ、もうやだやだやだ!」
月英は、机に突っ伏して頭を抱えた。
ふいに月英は目が覚めた。
そして、自分のいる場所に驚いた。寝台にいた。ここまで来た記憶がない。
もしかして、そう思って急いで部屋を出て孔明を探す。見つけた時、孔明は机に向かって何か書いていた。
「諸葛さま!!」
声をかけると、ほんの少しだけ驚いた様子を見せたが、
「起こしてしまいましたか、申し訳ありません」
「そんなことより、いつお帰りに?」
「つい先ほどです。」
「あの・・・、もしかして寝台まで運んでくださったのですか?」
「あそこで寝たままでは風邪をひきますから」
「お、重かったですよね?」
「――・・・」
否定しない孔明に月英は、妙なところで素直な人だと思いながら机の前まで歩を進める。
人を絡め捕るような陥れるような策を講じたりする人だというのに、変なところで子供のように素直なところがある。だからこそ、傍にいたくなるのかもしれないけれど。
「・・・まだお仕事をなさるおつもりですか?」
月英は、机に置かれた灯りをそっと取り上げてしまう。
月英殿、と孔明が困ったような、笑っているような声を出すので、そっと灯りを孔明に向けてみると、
「この書き物が終わったらすぐに休みますから」
だから、灯りを返してください、とその頬に笑みを浮かべて月英を見ていた。
その様子に月英は、わざと意地悪に考える振りをしてから、仕方ありませんね、と言って灯りを再度机の上に置く。
月英は、筆を走らせる孔明からそっと目を反らし、背を向ける。
自分が見ても平気なものか分からないので、月英はそうしたのだが、それを孔明は不審に思ったらしく、
「月英殿?」
と声をかけてきたので、見ても大丈夫なのですか、と答えると、あぁ、そういうことですか、と孔明が言った。
見てもいいと孔明が言わないので月英は、背を向けたままでいた。
しばらくして、コトッと孔明が筆を置いた気配がした。終わったのか、と思い、
「もうそちらを見ても大丈夫ですか?」
と尋ねると、いいえ、と孔明に言われた。そして、しばらくそのままで、と。
「先日はすみませんでした」
「――・・・」
振り返りそうになったのを月英は堪える。
「どうしたら許してもらえるのか考えたのですが、言ってしまったものは撤回できませんから」
「――・・・か、勘違いされても仕方なかったと今は思ってます」
でも・・・、と言葉を紡ごうとして、ぽろりと涙が零れてきたことに月英は自分で驚いた。
ぼろぼろ零れてくる涙を乱暴に拭う。
「私と・・・趙雲殿は・・・深い関係には・・・ありませんでした。あの人のことは今はただ憧れだったのではないかと、思ってます。だって、今は・・・私は・・・、貴方と、一緒にいたいと願って・・・いるのですから」
孔明は何も言わない。
月英なりに、今の気持ちを告白したつもりだったのだけれど、通じていないのかもしれない。
もしかしたらとは思っていたけれど、それで確信した。男女のことに孔明は鈍い、と。
無に近い静寂だけがむなしく流れるだけの時間に月英は焦れた。
唇を開きかけた時、ふっ・・・と闇に包まれた。孔明が灯りを消したようだった。カツっと足音がして孔明が近づいてきたのが分かった。思わず振り返るが何も見えない。手を伸ばすと、手首を掴まれた。
「貴方の口から趙雲殿のことはあまり聞きたくないですね」
「えっ?」
手首を掴まれたまま月英は、身動きが出来なかった。体が動かないのだ。
月英殿、名前を呼ばれ月英は咄嗟に、はい、と答える。
「正直、貴方と趙雲殿の間に体の関係がなかったことに驚きました」
「――・・・」
「趙雲殿も・・・」
いや、何でもありません、と孔明は何か言いかけてやめた。
「そんなことより、いいのですか?」
「何をでしょうか?」
「趙雲殿ではなく、私でいいのですか?」
震える手で月英は、自分の手首を掴む孔明の手に自分のそれを重ねる。
「前にも申しましたが、貴方がいいんです」
「あのようなことを言う私でもですか?」
「貴方じゃなきゃ嫌なんです!」
少し強い口調で言うと、一瞬の間の後、孔明が声をあげて笑ったのが分かった。
月英が驚いた隙を計ったかのように孔明の手が月英の肩に手が回されたかと思うと、今まで掴まれていた手首を離され、かわりとばかりにそのまま抱き寄せられた。
孔明が声をあげて笑ったのを聞いたのも初めてだし、今の状況にも月英は驚いた。
「実は、貴方が初めてで正直安堵しました」
「えっ・・・」
そのまま、孔明が月英の耳元で言った言葉に、月英は一瞬頭が真っ白になり、、
「そんなこと、私は知りませんから!!」
と軽く孔明の胸を叩く。そんな月英をまた孔明が笑った。今度は喉を揺らすようにクククッと。
そして、胸を叩く月英の腕を孔明は、絡め捕って押さえた。そのまま抱きしめる。
「また私の失言ですね」
「――・・・本当です」
月英が顔を上げると、その気配に気付いた孔明が月英を見下ろす。
暗闇に慣れ始めた目で孔明を見上げると目が合ったと思う間もなく、唇が重ねられた。ただ触れるだけの口付け。
ふっと孔明の唇が離れた時、寂しいと思い、あっと月英が小さな声を上げると、その開いた唇を狙っていたかのように孔明の舌が唇を割って入ってくる。
ん・・・、と息苦しさを訴えると、孔明の唇が離れ、
「先日も言いましたが鼻で息をすればいいんですよ」
と言う。あぁ、と言われなくても当然のことなのに、と月英が思わず感心の声を上げると、孔明がまた笑った。
そして、なぜこんなことすら分からない彼女に経験があると思ってしまったのだろうと孔明は、自嘲した。
あの時、彼女が身を固くしているのも何もかも、ただ違う男に抱かれることに混乱しているのだろうと思ってしまっていた。
笑われたことへの悔しさから月英が孔明から顔を反らすと、今度は首筋に孔明の吐息と唇を感じ、思わず、ひゃあと声を上げる。このままだと――・・・。
「今日お戻りになったばかりでお疲れでしょう」
孔明の胸に手を置き、引き離そうとするが、孔明の腕がそれが許さない。
「月英殿、こういうことは勢いが大切なのですよ」
「――冷静にそんなこと言わないでいただきたいのですが・・・」
そうですか、そう言うと孔明が月英を解放する。
孔明の温もりが離れると急に寒くなったような気がして月英は、自分の身を抱きしめる。
「あの・・・」
「貴方にお任せします」
どういうことなのか月英は分からず、小首をかしげてただ孔明を見つめた。
「私は、寝室におりますので、決心がつきましたらどうぞいらしてください」
「えぇ?!」
月英の驚きの声に、満足そうに孔明が笑う。
「い、意地悪です!」
「私は、貴方の意志を尊重しているだけですよ」
さらりとそんなことを言うと孔明は、部屋を出て行ってしまう。
部屋は再び静寂を取り戻してうすい闇に沈んでいる。
月英は身を持て余して立ち尽くしていたが、小さく自分の頬を叩くと、孔明の後を追った。
趙雲の声に、孔明はほんの少しだけ眉を顰めた。
けれど、趙雲はそんな孔明には気付かずに、廊の先を歩く月英の背を見ている様子だった。
孔明が声をかけると、月英はぷいっと顔を反らして全身で怒りを表現して、早足で去ってしまったのだ。
その様子を趙雲に見られたのかと思うと孔明は、ばつが悪い思いがした。
むなしく空に浮いたままの手をそっと下げると孔明は、
「何でもありませんよ」
と言う。
そうですか、とのんきに言う趙雲に腹がたつが、そっと瞼を伏せて、苛立ちを受け流す。
「でも、本気で怒っているわけではないでしょう」
趙雲が、そう言うので孔明は彼を見る。
「本気で怒っていたら、ああいう態度ではなく、もっと冷たい態度を見せますよ」
経験者は言うことが違いますね、喉元まで出かかった言葉を孔明は飲み込む。
今はこの男の存在が腹が立つと孔明は、内心再び苛立つ始めた。
月英が怒っているのは自分の失言が原因で、それはそれはあくまで自分の勘違いで、趙雲に怒りを感じるのもおかしな話なのだけれど。
「どちらへ?」
「急ぎの決裁が残ってますので仕事に戻りますが」
「そうですか、大変ですね」
「手伝ってくださってもかまいませんよ」
「いや・・・、小難しい頭の使う仕事は私には向いてません」
早く仲直りできるといいですね、にこりとそう言って去って行く趙雲の背を孔明は、ここぞとばかりに睨みつけた。月英との仲を取り持ってやろうとした時は、分からないとかはぐらかしてばかりいたくせに、今となっては惜しい気持ちがあるのか、時折自分の方が月英のことを知っていると匂わせるようなことを言う。
そのたびに、腹の奥底から苦々しい何かを感じる。
しかし、思ったとしても、口に出すべきではなかった。自分の失言を思い出し孔明は、深い後悔をした。
※
「初めて・・・なのですか?」
思わず驚いて洩れた言葉が、失言であったと孔明が気付いた時には遅かった。
破瓜の痛みを耐えながら涙を浮かべていた月英は、孔明の言葉に、えっと驚きの声を落とした。
一瞬の間の後、今までとは違う涙をぼろぼろと流し始め、今まで抱きついていた孔明の肩を押しやるようにして、孔明から逃れようとし始めた。
慌てて月英を押さえ込もうとするが、彼女の瞳に滲む哀しみと怒りに、そっとその身を離す。
このままことを続行してしまえば、それは結果として彼女を心身ともに深く傷つけるだけでしかないだろう。
孔明が力を緩め、月英から離れると、月英はくるりと孔明から背を向け、必死で床に散らばった衣服をかき集め、孔明の呼び止める声など聞こえないかのように部屋から出て行ってしまった。
てっきり趙雲と関係を持っていたと孔明は思っていた。だから、月英が処女だったことに驚いた。申し訳ないことを言ってしまったとは思うが、言ってしまった言葉は取り返せない。
苦手だ、と孔明は思った。男女のことは苦手だ、と孔明はつくづく思った。
仕事では思い浮かぶ策も月英相手には何も浮かばない。
さて――どうしたらいいのだろうか。さっぱり分からない。
孔明と月英の婚姻において、儀礼的なものはほぼなかった。
月英が親元をすでに離れ孔明とともに暮らしていたこともあり、周囲は事実婚として前から見なしていた。
劉備がけじめも必要だろうと簡素だが宴を開いてくれ、その晩のことだった――。
夫婦となることをふたりで決めたはずなのだが、いざとなると機会を失いがちだったのでいい節目になるだろうと、その日初めて同衾したのだが。
本当の夫婦となるはずだった日なのだか――。
最初からこれでやっていけるのだろうか、やはり彼女には趙雲殿の方が――・・・。
自らの身支度を整えながら、孔明はそう思うばかりだった。
※
執務室に戻ると、月英の姿があった。
日中の執務室は文官や女官などの出入りも激しい。孔明が戻って来たのに気付いた月英は、さも何もなかったかのような顔をして清書を頼んでいたいくつかの書簡を孔明に渡してきた。
あれから、数日が過ぎており、昼間他の者がいるときの月英に変わった様子はない。
「もう出来たのですか?」
「はい。確認願います」
書簡を受け取りひとつひとつ中身を確認しながら、その読みやすい細い筆跡を眺める。
戦場での活躍や軍議での言動など普段からどこか男勝りだか、筆跡はとても女性らしい。
筆跡は人格を表すという。月英の細い筆跡を見ながら、孔明は実は月英は繊細な神経の持ち主なのかもしれないと思った。
「他に何かできることはありますか?」
「――今のところは大丈夫です。またお願いするかと思いますが今は休んでください。疲れたでしょう」
これだけの書簡を短期間で清書したということはとても疲れているだろう、孔明はそう思った。
月英は、分かりました、と小さな声で言って踵を返して数歩歩いたかと急に振り返った。
「何か?」
「――いいえ。また何か私にできることがありましたら声をかけてください」
「ありがとうございます」
あの、と月英が何か言いかけたので孔明は月英を見るが、彼女が小さく首を振り、何でもありません、と言い終わる前に執務室を後にしようと扉に向かった時、文官が飛び込んできた。
何事かと月英は、ぱっと扉から身を翻し、その文官が何やら孔明に訴えているのを見る。内容はあまり聞こえない。けれど、何か大変なことが起きたらしいということだけは分かった。
「殿の所へ行きます」
孔明はそう言うと、慌しく執務室から出て行ってしまう。月英の姿などまったくその視界には入っていない様子で。
※
――大丈夫だろうか。
と月英は思う。
ひとり、夜更けに小さな灯りの中に背筋を伸ばして座りながら。
――ちゃんと食べているのだろうか。寝ているのだろうか。
まるで子供のことを思う母のような思いに月英は、溜息を洩らす。
成人男性に心配することではないとは分かっているのだけれど。
孔明は、文官が慌てて何かを報告してきた後、慌しく劉備の元に行ったかと思うと、視察だといって行き先も告げないままどこかに行ってしまった。
10日前後で戻るだろうと聞かれていたが、10日過ぎても帰ってこない。
何があったのかは機密事項なのか月英の耳には入ってこないのが、また悔しい。
けれど――。
帰ってきたらきたらでどう反応すべきなのかが分からないのだ。
「初めて・・・なのですか?」
孔明に言われた言葉を思い出すと、ぎりっと下唇をかみ締めて悔しいような哀しいようなそんな感情の入り混じった形容したがい思いに苛まれる。
その言葉を聞く瞬間まで、月英は幸せだと思っていた。
孔明はとても優しかったし、この痛みも孔明とだから耐えられる、そんな風に思っていたのだけれど――。
孔明は違ったということなのか?
趙雲と体の関係があったと思われていたことが月英には、哀しかった。
けれど、そう勘違いされても仕方のないことなのかもしれない、そんな諦めに近い思いもある。
あの時――「初めて・・・なのですか?」と言われた時、逃げ出さなければ良かったのだろうか?
孔明は余計なことは言わない性分だと分かっている。
そんな彼の口から思わず出た言葉なのだから、よほど意外なことだったのだろう。
ずっと孔明は趙雲との仲を取り持とうとしてくれていた。
結局うまくいかなかった自分を孔明は拾ってくれた、ということなのだろうか?
いろいろな考えがぐるぐる浮かんでは月英の頭を駆け巡る。
あぁ、と思わず声を洩らす。
それから、いろいろなことに悔しさを感じるが、孔明が何も気にしていない様子なのも悔しいのだ。
誰もいないとき、声をかけられそうになってすっと逃げてしまったのは自分だけれど、初夜から逃げ出すような女は必要ないとか、逆に仕事の話しかされなかったのだとしたらそれはそれで悔しいのだ。
清書した書簡を持って行った時、
「今は休んでください。疲れたでしょう」
そう孔明に言われた。それは諸葛さまの方です、本当はそう言いたかった。
言えば、口角をほんの少しだけ上げて困ったように笑っただろう。いつもならそう言えるのにあの日は駄目だった。
今、一番悔しいのは、らしくない自分だった。
「あぁ、もうやだやだやだ!」
月英は、机に突っ伏して頭を抱えた。
ふいに月英は目が覚めた。
そして、自分のいる場所に驚いた。寝台にいた。ここまで来た記憶がない。
もしかして、そう思って急いで部屋を出て孔明を探す。見つけた時、孔明は机に向かって何か書いていた。
「諸葛さま!!」
声をかけると、ほんの少しだけ驚いた様子を見せたが、
「起こしてしまいましたか、申し訳ありません」
「そんなことより、いつお帰りに?」
「つい先ほどです。」
「あの・・・、もしかして寝台まで運んでくださったのですか?」
「あそこで寝たままでは風邪をひきますから」
「お、重かったですよね?」
「――・・・」
否定しない孔明に月英は、妙なところで素直な人だと思いながら机の前まで歩を進める。
人を絡め捕るような陥れるような策を講じたりする人だというのに、変なところで子供のように素直なところがある。だからこそ、傍にいたくなるのかもしれないけれど。
「・・・まだお仕事をなさるおつもりですか?」
月英は、机に置かれた灯りをそっと取り上げてしまう。
月英殿、と孔明が困ったような、笑っているような声を出すので、そっと灯りを孔明に向けてみると、
「この書き物が終わったらすぐに休みますから」
だから、灯りを返してください、とその頬に笑みを浮かべて月英を見ていた。
その様子に月英は、わざと意地悪に考える振りをしてから、仕方ありませんね、と言って灯りを再度机の上に置く。
月英は、筆を走らせる孔明からそっと目を反らし、背を向ける。
自分が見ても平気なものか分からないので、月英はそうしたのだが、それを孔明は不審に思ったらしく、
「月英殿?」
と声をかけてきたので、見ても大丈夫なのですか、と答えると、あぁ、そういうことですか、と孔明が言った。
見てもいいと孔明が言わないので月英は、背を向けたままでいた。
しばらくして、コトッと孔明が筆を置いた気配がした。終わったのか、と思い、
「もうそちらを見ても大丈夫ですか?」
と尋ねると、いいえ、と孔明に言われた。そして、しばらくそのままで、と。
「先日はすみませんでした」
「――・・・」
振り返りそうになったのを月英は堪える。
「どうしたら許してもらえるのか考えたのですが、言ってしまったものは撤回できませんから」
「――・・・か、勘違いされても仕方なかったと今は思ってます」
でも・・・、と言葉を紡ごうとして、ぽろりと涙が零れてきたことに月英は自分で驚いた。
ぼろぼろ零れてくる涙を乱暴に拭う。
「私と・・・趙雲殿は・・・深い関係には・・・ありませんでした。あの人のことは今はただ憧れだったのではないかと、思ってます。だって、今は・・・私は・・・、貴方と、一緒にいたいと願って・・・いるのですから」
孔明は何も言わない。
月英なりに、今の気持ちを告白したつもりだったのだけれど、通じていないのかもしれない。
もしかしたらとは思っていたけれど、それで確信した。男女のことに孔明は鈍い、と。
無に近い静寂だけがむなしく流れるだけの時間に月英は焦れた。
唇を開きかけた時、ふっ・・・と闇に包まれた。孔明が灯りを消したようだった。カツっと足音がして孔明が近づいてきたのが分かった。思わず振り返るが何も見えない。手を伸ばすと、手首を掴まれた。
「貴方の口から趙雲殿のことはあまり聞きたくないですね」
「えっ?」
手首を掴まれたまま月英は、身動きが出来なかった。体が動かないのだ。
月英殿、名前を呼ばれ月英は咄嗟に、はい、と答える。
「正直、貴方と趙雲殿の間に体の関係がなかったことに驚きました」
「――・・・」
「趙雲殿も・・・」
いや、何でもありません、と孔明は何か言いかけてやめた。
「そんなことより、いいのですか?」
「何をでしょうか?」
「趙雲殿ではなく、私でいいのですか?」
震える手で月英は、自分の手首を掴む孔明の手に自分のそれを重ねる。
「前にも申しましたが、貴方がいいんです」
「あのようなことを言う私でもですか?」
「貴方じゃなきゃ嫌なんです!」
少し強い口調で言うと、一瞬の間の後、孔明が声をあげて笑ったのが分かった。
月英が驚いた隙を計ったかのように孔明の手が月英の肩に手が回されたかと思うと、今まで掴まれていた手首を離され、かわりとばかりにそのまま抱き寄せられた。
孔明が声をあげて笑ったのを聞いたのも初めてだし、今の状況にも月英は驚いた。
「実は、貴方が初めてで正直安堵しました」
「えっ・・・」
そのまま、孔明が月英の耳元で言った言葉に、月英は一瞬頭が真っ白になり、、
「そんなこと、私は知りませんから!!」
と軽く孔明の胸を叩く。そんな月英をまた孔明が笑った。今度は喉を揺らすようにクククッと。
そして、胸を叩く月英の腕を孔明は、絡め捕って押さえた。そのまま抱きしめる。
「また私の失言ですね」
「――・・・本当です」
月英が顔を上げると、その気配に気付いた孔明が月英を見下ろす。
暗闇に慣れ始めた目で孔明を見上げると目が合ったと思う間もなく、唇が重ねられた。ただ触れるだけの口付け。
ふっと孔明の唇が離れた時、寂しいと思い、あっと月英が小さな声を上げると、その開いた唇を狙っていたかのように孔明の舌が唇を割って入ってくる。
ん・・・、と息苦しさを訴えると、孔明の唇が離れ、
「先日も言いましたが鼻で息をすればいいんですよ」
と言う。あぁ、と言われなくても当然のことなのに、と月英が思わず感心の声を上げると、孔明がまた笑った。
そして、なぜこんなことすら分からない彼女に経験があると思ってしまったのだろうと孔明は、自嘲した。
あの時、彼女が身を固くしているのも何もかも、ただ違う男に抱かれることに混乱しているのだろうと思ってしまっていた。
笑われたことへの悔しさから月英が孔明から顔を反らすと、今度は首筋に孔明の吐息と唇を感じ、思わず、ひゃあと声を上げる。このままだと――・・・。
「今日お戻りになったばかりでお疲れでしょう」
孔明の胸に手を置き、引き離そうとするが、孔明の腕がそれが許さない。
「月英殿、こういうことは勢いが大切なのですよ」
「――冷静にそんなこと言わないでいただきたいのですが・・・」
そうですか、そう言うと孔明が月英を解放する。
孔明の温もりが離れると急に寒くなったような気がして月英は、自分の身を抱きしめる。
「あの・・・」
「貴方にお任せします」
どういうことなのか月英は分からず、小首をかしげてただ孔明を見つめた。
「私は、寝室におりますので、決心がつきましたらどうぞいらしてください」
「えぇ?!」
月英の驚きの声に、満足そうに孔明が笑う。
「い、意地悪です!」
「私は、貴方の意志を尊重しているだけですよ」
さらりとそんなことを言うと孔明は、部屋を出て行ってしまう。
部屋は再び静寂を取り戻してうすい闇に沈んでいる。
月英は身を持て余して立ち尽くしていたが、小さく自分の頬を叩くと、孔明の後を追った。
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