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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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耳元を、ひゅるひゅると風が流れていく。
趙雲は、衣をまとうように自然に馬を操りながら、走り去る景色を注意深く見つめる。
特別異常はない。
あたりの景色をうかがった後、山道の途中で馬の足を止める。
ふいに気配を感じて、馬から降りて気配を感じた付近にそっと近づく。そこは、人がやっと通れるぐらいの細い獣道だったが、ほんのちょっと行くと、人が座れるぐらいの岩があり、その上には。
 
「月英殿」
 
趙雲の気配を感じていたのか、月英は別段驚くことなく、頬から、ほろ・・・と微笑を零した。
彼女は手に長い枝を持ち、右足で地面の土に何か書いていたのを消した。
 
「何しているのですか?」
「ちょっと算数です」
「算数・・・ですか?」
 
そう言うと腰掛けていた岩から立ち上がる。
月英が何か計算していたところで驚かない。また何か突飛な物を作ろうとしているかもしれないと思った。
 
「消してしまっていいのですか?」
「駄目ならこんなところに書きませんよ」
「確かに」
「趙雲殿は?自ら視察ですか?」
「まぁ、そういう名目の息抜きです」
「長引いてますから、息抜きも必要ですわ」
 
揚州、荊州といった地域は次々と魏軍により制圧され、形勢が蜀に不利になると判断した劉備軍は、曹操と雌雄を決するべく五丈原へと軍を進めるが、長い膠着状態が続いていた。
 

何か話題を、と思っても趙雲は話の端を見つけることができない。
困ったな、とじれったい思いをかみ締めたが、月英はそれを気にしている様子もないが、あっと何かを見つけたのか声を上げる。
見ると、薄紫の花。草の原の中の低木の陰に隠れるように咲いている。
 
「ジャノヒゲです。根が漢方になるんです。麦門です」
「さすが詳しいですね」
 
隣に立ち、薄紫のそれを覗き込む月英の瞳に見る。
その目の色がどこか頼りなくて、心が凪いだ瞬間、目を反らした。
そして、思い出す。
 
「私とあなたは根底が同じ。けれど、分岐点が違う」
 
かつて孔明に言われた言葉。
いまだに意味が分からず、けれど、それを口に出して尋ねることなどできない。
声が似ているとはよく言われる。孔明の妻の月英でさえよくそう言う。
そっと隣に立ち月英の横顔をちらりと覗き見る。
その時、風が舞った。冷たい風が頬に触れる。
風に舞って月英の髪が趙雲の鼻先を掠めふわりと何かが香る。それに趙雲は思わず眉根を顰める。落ち着かない。何か落ち着かない焦燥感を襲ってくる。
それを振り払うように、
 
「風が冷たくなってきましたので戻りましょう」
 
そう言うが早いが、月英に背を向けて、歩き出す。それに月英がついてくる気配を感じながら。
 





劉備軍の陣営に趙雲を戻った後、孔明の姿をすぐに見つけた。
口元を抑え、咳をしている様子を月英がじっと見つめていると、
 
「無理をなさっているのではありませんか?」
 
趙雲に問われ、月英は趙雲を見上げる。
 
「ええ。孔明さまはいつも、大切なもののために命を燃やして・・・」
「それは諸葛亮殿だけではなく、月英殿もそうかもしれませんね」
「えっ?」
「大切なもののためを思えばこそ、こうして戦場に立っておられる」
 
趙雲の言葉に月英が口の端に力のない笑みを浮かべると、
 
「結局、似たもの夫婦ですよ、あなた方は」
 
どこかほろ苦いものが滲んだ声を、そして、目尻のあたりを、趙雲は困ったようにゆがめてそう言った。
 
 
 ※
 
 
どうしよう。
 
月英は自らの幕舎でひとり考える。
再び月英は頭の中でぐるぐると計算し直すが、頭の中だけではなく地面に書き出して計算しても結果はいつも同じだった。
けれど、自分にはそれに関して深い知識はない。聞き齧り程度の知識でしかない。
だから間違っているのかもしれないが、それを相談できる相手もここにはいない。
 
どうしよう。
 
口にだしても仕方がないがつい洩らしてしまい、ハッとして口元を抑える。誰もいないことに安心しつつ、けれど、零れてしまった呟きに、溜息を落とす。
月英はこの不安を、孔明に頼らずになだめていくしかない。
つらくても。悲しくても。苦しくても。
胸に言い聞かせながら、体と心ががたがたと震えるような気がして我が身をそっと抱きしめる。
 
――本当は。
 
本当は言って欲しいし、言いたい。本当は。本当は。
 
 
その時。
肩に手が置かれた感触に瞬間、振り返る。
 
「孔明さま」
「あなたが気配に気付かないとは珍しい」
「申し訳ありません」
 
孔明に咎められた訳でもないのに萎れてしまった月英に孔明は軽い笑みを口に浮かべる。
 
「顔色が悪いようですが」
「それは――」
 
孔明さまです、と言葉を繋ごうとして、けれど、ふと言葉を切った。言ったところで何にもならない言葉なのだから。
けれど――。
 
「何か私に隠していませんか?」
 
孔明にそう問われ、月英は孔明の視線から逃れるように身じろぎをして、
 
「――孔明さまが、私に隠していらっしゃることを言ってくだされば、私も言います」
 
くるりと孔明に背を向けて、幕舎を後にする。
 
 
 

 
 
 
 

機嫌が悪そうに唇をきつく噛み締めながら月英が、走り去っていく。
趙雲は、彼女の背が見えなくなるまで見た後、視線を戻すと孔明が歩いてくる姿が見えた。
 
「夫婦喧嘩ですか?」
 
近づいて趙雲がからかうようにそう言うと、孔明は口の端に苦笑を浮かべ、
 
「そうたいしたことではありませんよ」
「ふたりが喧嘩なんて珍しいですね」
「そうでもない。言い争うことぐらいある」
「月英殿でも口ではあなたに適わないでしょう?」
 
さぁ、どうでしょう、孔明は言うとその場を離れようとしたので趙雲はそれについて行く。
一瞬、孔明は訝しげな目で趙雲を振り返ったが、すぐに視線を戻した。
 
「体は大丈夫ですか?月英殿が心配してますよ」
「大丈夫です。あなたは最近――」
「何ですか?」
「二言目には月英殿、ですね」
「えっ?」
 
孔明の言葉にふとためらいを感じ、唇を閉ざし、けれどもすぐに再び唇を開いてみたが、それはすぐ溜息へと変わった。溜息をひとつ落とした後、ゆっくりと瞬きをしてから、
 
「それはあなたが心配だからです。殿にも我々にもあなたが必要で、そのあなたの妻が月英殿だから・・・、だからです」
 
趙雲の言葉の語尾が、濁って途切れる。
しばらく黙ったままだったが、教えてください、と孔明を見つめる。
言葉ではなく孔明は瞳でそれに応じる。
 
「あなたは以前、私とあなたは根底が同じだけど分岐点が違うと言った。その言葉の意味が私には分からない」
「深い意味はありませんよ。その言葉の通りです。私とあなたは似ている」
「そうは思えないのですが・・・。似ているのは声だけですよ」
「そうですか。それならば、例を出すと分かりやすいのは月英のことですかね」
「えっ?」
「殿が月英を我らが軍に迎えたいと言い出し、誰かと縁付けようとした際、私はあなたを薦めました。それはあなたが月英に興味を示したと思ったからです」
「――それは恋愛感情ではなく、ただ女性がいるのは華やかでいいと思っただけです」
「ええ。それは分かっています。けれど、興味は持った」
「だから、それは」
 
うまく言葉が見つからずそんな自分に苛立ちを感じつつ、趙雲は唇を閉ざす。
きっと他でも例えることができるのだろうが、自分の弱い部分を孔明が突いてきたかと思うと、悔しさが胸にかすかに滲んだ。そんな趙雲をかまわず孔明は話を続ける。
 
「仮に月英が私の妻にならなければ、あなたは彼女に恋愛感情を抱いたと思うのです。いや、最初に興味を持った時点で惹かれたが、私が彼女を自分のものにしてしまったから、あなたはその気持ちをすぐに捨てた。それはさほど苦にならなかったでしょう。私もあなたが月英と結婚しても、同じだったと思います」
「そうですか?あなたは月英殿への執着心がすごいように思えるのですが」
「それは互いに気持ちが一緒になった相手だからです。それに、共に江東へ行くことがなければ私は彼女にそこまで惹かれなかったでしょうから、そのままあなたと月英が一緒になっても、さほど苦にはならなかった。そう思います」
「――・・・」
「私もあなたも感情を抑制し行動することに本音を出さないことに慣れている。ただ、私はただ黙るだけですが、あなたは笑顔の裏に憎しみも悲しみも封じ込める。そこが私たちの違うところだ」
「それ・・・は・・・」
 
ふっと浮かびかけた躊躇を、趙雲が呑み込めないまま唸った時、
 
「私に何かあり命を落とした場合」
「諸葛亮殿!」
「仮の話です」
 
一瞬、虚をつかれたようにかすかな驚きに揺れた趙雲の瞳を、孔明は見据える。
 
「その場合、私はあなたに月英を託したいと思っていた」
「な、にを言っているのですか」
「けれど、それではだめでしょう。互いに傷つけあうだけになる」
「――なぜ?」
「私とあなたが似ているからですよ。月英はあなたに私と似ているところを見出しては嘆くでしょうし、そんな月英をあなたは受け止めかね、互いに傷つけあうだけになる。いつまでも自分をみない月英に苛立つ日がくるかもしれない。それでは駄目なのです」
「――・・・仮の話だと分かっていても・・・」
 
趙雲は、くしゃと頭をかくと、無気力な呟きを落とすような声を出す。
 
「――私などより馬超殿の方が」
「馬超殿は夷陵の戦いの折から、我らにどこか失望感を持っている。だから、駄目です。世が落ち着いたら彼はきっと去って行きます。それに月英はついていくとは思えない。私が死んでも月英は殿のところから離れないでしょう」
「それはあなたが命を縮めてまで仕える方だからでしょう」
「ええ。それもあるでしょうが、月英自身仕えるに尊敬すべき人だと思っているからですよ。妻は、夫である私の意見だけではなく自ら生きる道を見極める力を持った女性です。あなたも殿の傍を離れないでしょうから、できたら趙雲殿に妻を任せたいと思っていた」
「けれど、それは・・・無理なのでしょう」
 
孔明は、哀しく乾いた微笑をその頬に浮かばせた。
それを受けて趙雲は、
 
「私は、月英殿が好きなのではなく、おふたりが好きなのです。あなた方夫婦が好きなのです。ただそれだけです。他意は・・・ない」
 
自分に言い聞かせるように言う趙雲の言葉に孔明はふっと目元を緩めて、ありがとうと、微笑む。
 
 

 
 ※

ふるふると風が舞う。
吐き出す息は真っ白く、冷たく、無言だ。
月英を、ただ寂しさの中へ閉じ込めてしまうかのように、風が舞う。
そっと手を伸ばしてみる。掴めないとは分かっていても伸ばしてみる。
手に触れる風は、さらりと冷たく、月英の体をすり抜けていく。

孔明さまは――。

臥龍と呼ばれた。龍は風に舞って空へと昇っていくのだろうか。
もしかして、今はその時なのだろうか?
すり抜けた風に髪がひらひらほつれていくばかりで、心細さに馬鹿な考えが浮かび、それに身が震えるのを、
 
(こんなことではだめだ。私がこんなのではまた叱られる)
 
と自分を叱りつけてみる。
 
それから、祈るのだ。
お願いです。朝佳さん、まだ孔明さまを連れていかないで、と。
 
ぼんやりと月英が、そう思っていると背後に気配を感じ、月英はゆっくりと振り返る。
 
「殿・・・、尚香さま・・・」
「孔明は?」
「変わりありません」
 
そうか、唸るように劉備が言うのに、小さく頷く。
劉備の脇にいた尚香がそっと月英に近づき、その腕を取る。腕に触れる尚香のぬくもりに、そっと月英は身を預ける。
 
「ちゃんと食べている?」
「食欲がなくて」
「駄目よ。あなたまで倒れたらどうするのよ」
 
ぐっと腕を尚香に引っ張られ、ぐらりと体の重心が崩れたが尚香は気にせず歩きだす。
 
「何か食べさせてきます」
 
尚香が劉備にそう言うと、劉備はそれに言葉なく頷く。
腕に絡められた尚香の手があたたかい。あたたかな手をして、自分の足で歩いて、そうして、柔らかく笑う尚香に、月英はそっとそのぬくもりに手を重ねてみる。
 


 
 
 
孔明が倒れたのは、五丈原の戦いの後すぐのこと。
月英はその場にはいなかった。だから、劉備から話を聞かされた。
自分の間の悪さに月英は取り乱し、ひぃと低いうめき声を上げて、立っていられなくなって、月英は膝から倒れこんだ。
それを劉備の傍に控えていた趙雲に支えられた。
五丈原の戦いで月英は、孔明に反抗していた。
孔明は月英を前線に出すことを珍しく言葉を濁し反対したのを構わず、月英は前線へと向かった。
孔明を、孔明の思想を、孔明が思い描いた劉備の治世を守るのが自分のすべきことだと思ったから。
後付のようなもっともらしい理由をつけて自分を退けようとする孔明に逆らった。
だから、意見を違えたまま、孔明は倒れた。
なんて間の悪い。
最初は冷静に、どこか現実的でなくそう思った。
 
けれど。

意識のない孔明の姿を見た瞬間、立っていられなくなって、月英は膝から倒れこんだ。

このまま孔明は――。

そう思った途端、声にならない悲鳴が洩れて、想像したことへの恐怖に全身の力が抜けて動けなくなった。
心も体も硬直してしまったが、ガタガタと震えた。
どうしていいのか分からず、言葉が出てこない。
ただ取り乱すしかできない。
分からない。分からない。何も分からない。
ガタガタ震える体を趙雲に支えられ、彼がゆっくりと月英を立たせようとしたけれど、またぐらりと倒れこみそうになった時。
そのまま、支え直すのかと思った。
 
けれど。

――パンッ。

小気味よい音が、部屋の空気を裂いて響いた。

その部屋にいた劉備は、何か起きたのか一瞬分からなかった。
ふと見れば、月英が崩れ折れている。
長い髪が、月英の顔をだらり覆い、だから彼女の表情は見えなかった。
が、その肩がそっと動き、両手が右頬を戸惑いながら包んでいく。
鳴り響いたのは月英の頬がぶたれた音。
月英はそのまま顔を上げた。感情の浮かんでいない瞳で趙雲を見上げた。
ぶったのは趙雲。
趙雲、と劉備が声を上げようとするよりも早く、
 
「諸葛亮殿はまだ生きている!くだらないことを考えるのはやめなさい」
 
趙雲の怒鳴り声が部屋に響く。
そのまま、月英を憎いものを見据えるような冷たい目で見ると、そのまま静寂が過ぎた。
劉備はそばにあって息を呑んだ。それは永遠にも似た重さを持った冷たく辛い静寂だった。
やがて。
趙雲は黙ったまま、くるりと月英に背を向けるとさっさと部屋を出て行ってしまった。
残された静寂が、やがて、よそよそしく、しらけていく。
 




ふとその時のことを劉備は思い出した。
軽くその部屋の戸を叩くと、すっと開かれて孔明の弟の均が顔を出した。
均もだいぶ痩せていた。
それを言うと、口の端に笑みを浮かべ首を大丈夫だと振った。
孔明が倒れた後、均は劉備を月英に土下座する勢いで謝った。自分はすべて知っていたのに、何も出来なかったとただ謝るのだった。
自分を責めないで、私も気付いていたのに何もできなかった、と月英が言うと、ただ首を振った。
それから、月英はそっと同じ不安を抱える義弟の肩に触れたのだった。
それを思い出すと、劉備の胸に痛みが走る。
初めて月英に会った時、赤い髪が肩からこぼれるだけで、その唇が小さく吐息するだけで、その細い体が動くだけで、それだけで、甘い粒子がきらきらと舞い立ち、生きる気力が溢れているように思えた。
そして、ほとばしる孔明への想いが、けなげで愛おしくさえ思えた。
けれど――。
今の月英は、はかなく、頼りない。
それでも、じょじょにだけれど、翳った瞳の中に強さを滲ませている。
そっと意識のない孔明を見る。
こうなることを孔明は予想していたのだろう。
軍事、内政において、今大きな混乱はない。すべて孔明が指示を残し、それぞれにあった後継者を育てていた――。
それに、劉備は溜息をこぼす。





 ※


孔明の部屋を後にしてすぐ、突然胸に飛びついてきたその重みを劉備は受け止めて、けれど、
 
「尚香!?」
 
驚いたように声を上げて、妻を見下ろす。
それに尚香は、にこりと微笑を向けて、ぐっと劉備の服を掴む。
 
「ねぇ、劉備さま。つらいこともあるけど、素敵なことも待ってるみたいよ」
「えっ?」
「劉備さまにとっても嬉しいことよ」
 
謎掛けのような妻の言葉に、劉備は戸惑いを感じ、問おうしたけれど、するりと尚香はその胸からすり抜けて、ふふふっ・・・
とやさしげな含み笑いを見せるのだ。
 
 
 ※
 
 
趙雲にぶたれたあの後――。
 
意識のない孔明の手をぎゅっと握ってみると、まだ温かい、命の手応えがあった。
といっても、それはとても頼りない。
孔明の意識は時折戻るが、戻っても苦しいだけだと医師に言われ、薬で再び眠らせることもある。
意識が戻った時、手に触れても握り返してくれない。
その目に自分が映っているのかも分からない。
だから、不安になる。不安に苛まれる。
けれど、ほんの時折、忙しい中、劉備が自身から孔明の部屋を訪れては、月英に孔明の話などをしてゆく。
寂しさのつれづれを、なぐさめてくれようとしてくれているのだ。
それが嬉しく、そんな人だから孔明はこうなるまで尽くしたのだと思うと、胸に形容しがたいいろいろな感情にじんわりと滲む。だから。
私は大丈夫、と月英は心をしっかり持とうとする。
それに、
 
「諸葛亮殿はまだ生きている!くだらないことを考えるのはやめなさい」
 
趙雲に言われた言葉を、右頬に触れて思い出す。
そう、孔明は生きている。生きろうとしている。だから、大丈夫。
それに、尚香は言った。
 
「なんて素敵で羨ましいことなの!」
 
その言葉に、勇気をもらった。今はまだ実感がないけれど――・・・。
 
 
 
今まで何もそれにあたる症状は出なかった。
だから、誰にも気付かれないと思っていたのに、尚香に気付かれた。
食欲のない月英に何でもいいから食べさせようとして、出された物に月英は吐き気を覚えた。
食欲不振から吐き気だと言って、尚香も納得したように思えたのだけれど、なかなか気分も戻らない月英を不振に思ったらしくすぐさま、医者を呼ばれた。
思い出してほぉぉ、と溜息を零した。
それから、そっと寝台の上の孔明の寝顔を見下ろした。
考えてみれば、こうしてゆっくりと孔明の寝顔を見ることもなかったのではないか。そう思った。
常に忙しい人だった。常に何かを思案している人だった。

孔明さま、と呼びかけてみる。
孔明さま、再び呼びかけて、口の端までのぼってきそうだった心の昂ぶりを、そっと唇を舐めて呑み込んだその時。
奥様、と使用人の声にハッとして腰を上げて振り返ると、使用人の隣に趙雲の姿があった。
 
「お見舞いに来てくださいました」
 
そう言うと、さっと使用人は行ってしまう。
ぶたれて以来初めて見る趙雲の姿に、月英は彼が気まずそうにしているのでふっとその目の端に笑みを浮かべてみせる。
それに趙雲は少し驚いたように瞳を揺らした。
 
「諸葛亮殿は・・・」
「変わりません」
 
月英の脇に立つと趙雲は孔明と月英を交互に見据えた。
 
「思ったより・・・」
 
言いかけた言葉を趙雲は、軽い吐息混じりに止めたかと思うと、
 
「先日はすみませんでした。女性に手を上げるなんて・・・」
「趙雲殿らしくないですよね」
 
でも、おかげで目が覚めました、と月英が繋いだ言葉を趙雲は、
 
「諸葛亮殿は、自身に何かあったら、あなたを私に託したいと思っていたそうです」
 
と受け取る。
月英は髪を伝わってすべり落ちてきた言葉に顔を上げると、ふたりの視線が交差し、互いに顔を反らさないまま、見つめ合う。
けれど、それは趙雲がふっと深い笑みを頬に浮かべたそれに消された。
それは不思議な笑みだった。月英を見つめながら、月英の存在など通り越して、何か別のものに心を向けているような――何かとらわれているような。
 
「けれど、私と諸葛亮殿が似ているから、互いに傷つけあうだけだから駄目だろうとも言われましたが、納得できなかった。私と諸葛亮殿が似ているか私には疑問です」
「――・・・声は・・・似ていらっしゃいます」
「よくそう言いますね」
「私には孔明さまと趙雲殿が・・・、そんな話をしていたことの方が意外です」
「男同志、たまには・・・」
 
趙雲は軽い笑みを口元に浮かべた。それから、急に真面目な顔になって、
 
「諸葛亮殿は、私はあなたを受け止められないとも言いました。それはそうでしょう。そう牽制されてしまっては・・・ね。あなたを見ていると諸葛亮殿も一緒にいるようで仕方がない。」
「趙雲殿・・・?」
「今はふたりが繋いだ糸は、きっと切ることができないと思ってます」
「えっ?」
「そもそも、切らせませんよ、あなた方は」
 
趙雲の言葉を月英は受け止めかねて、首を傾げる。かまわず趙雲は、孔明へと視線を滑らせる。
あとは、特別会話を交わさなかった。
趙雲は孔明をただ見つめ、そんな趙雲を月英は見つめた。




 
空白。
やがて白濁。
それから、すっ・・・・と何かが瞼の奥で揺らめいた気配がした。
声が出ない。
 
――孔明さま。
 
名を呼ばれた。その声音の周波が孔明の胸をあたたかく満たす。
やがて、あたたかいものが手に、頬に触れてくる。
握り返したいのに力が入らない。
けれど、握り締められる手が、何かあたたかい感触で濡れていく。
涙だ。この涙は妻の涙だ。
妻の涙であたたかく潤っていくのを孔明はそのままにしておいて、あぁ、駄目だな、と思った。
いつの世も、探せば人材というのは見つかり、時間をかけて育てればどうにかなる。

けれど、月英は――。

月英の夫は自分しかいないだと思った。
混濁する意識の中、孔明は月英の赤い髪、瞳の色、頬の色、ひとつひとつをたどるように思い出す。
凛とした美しさと清らかさを兼ね備え、その表情には強さも持っている女性。
月英のすべてを思い出そうとして、けれど、その顔がとても悲しそうで。
笑顔をたくさん見ていたはずなのに思い出すのは哀しそうな泣きそうなはかない顔だけ。

なぜ――。

笑顔が見たい。
そう思った瞬間、視界がゆっくりと澄んでいった。
最初はゆらゆら頼りない水面のような世界だったけれど、じょじょに鮮明になっていき、やがて――。
孔明さま、という声とともに妻の顔が見えた。
が、しかし、その顔は先程思い出した哀しそうな泣きそうなはかない顔と同じもの。
笑ってくれないものか、孔明は思ったと同時に、ハッとした。思い出した。
月英は自分が制するのも止めずに戦場に出た。
声が出ない。唇が痺れたように動かない。
声の変わりに出たのは苦しい咳だけ。
なかなか止まらない咳に月英の手が、医者でも呼ぶつもりなのかすっと離れようとしたのを、力が入らないながら、指先をようようと動かして止める。
ながい時間がかかったが息ができるようになって、それから、月英の瞳を見つめた後、そっとその視線を彼女の腹部へと向ける。それに月英は、孔明の指先を握り締める。
握り締められた指先から、彼女の命が流れてくるような不思議な安堵感が孔明をあたたかく染める。
 
「初夏だそうです」
 
月英の言葉に、孔明は目を細める。
それから、月英の指先から感じた安堵感が全身をあたたかく染め上げて、あたたかさに包まれて、孔明の瞼が、また、
とろりとろりと溶けていく。

 
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