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諸葛夫婦(孔明&月英)中心小説保管庫です。更新はありません。旧「有頂天外」です。
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「軍師殿は、よく夜空を見上げてますね」
 
                                           「――そうですか?」
 
「闇夜だと寂しそうに見えますよ」



その姿を見た時、まず思考が止まった。
一瞬、何がなんだか分からず、目の前にいる人を凝視することしかできない孔明を、その人は面白げに瞳を揺らして、

「お久しぶりです、義兄上」

にこりと微笑んだ。

「奥方の弟さんなんでしょう?えっと、名前は――」
「黄英です。英と呼んでください」

ものおじしない口調で、趙雲に言う。孔明は、その声に我に返った。
そして、驚きのあまり一瞬で乾いてしまった喉で、

「どういうつもりですか?」

真っ直ぐにその瞳を射る。
 
 ※
 
新しい年がきたばかりの頃だった。
三顧の礼を経て、諸葛亮孔明は今まで暮らした草庵からの出廬を決意した。
幼くして両親を失い、叔父に引き取られるも腐敗した時代の権力闘争の結果、その叔父も失い、弟妹を連れて各地を流浪した結果、隆中にたどりつき、荒地を開拓し、生活の安定を得、弟妹を育てる傍ら、私塾を開き人材を育成していた水鏡こと司馬徽の元へ通い、勉学に励みつつ、その師の友人である黄承彦の娘である月英と結婚し晴耕雨読の日々を送っていた彼の元にある一行がやってきた。
一度目は留守をしていた。
二度目も留守をしていたが、文が残されていた。
そして、三度目で対面を果たした。
その人物は劉備玄徳。
漢室の流れと汲み、劉皇叔と呼び習わされていた。
現在は流浪の身で、孔明の住む荊州の牧であった劉表の元で客将として新野を任されていた。
初めて会った時、互いに火花を感じた。互いに待っていた人物だと悟った。
そして、彼に仕える決心をし、出廬を決意した。
もう妹も嫁ぎ、弟もひとりでやっているだけの力を持っていた。
けれど、妻――月英のことが気がかりだった。
武芸と発明を好む少し風変わりな妻だったが孔明は惚れた弱みかめっぽう弱かった。
けれど、どうなるか分からない先の見えない人生に道連れにする訳にはいかない。
共に行くとごねて泣く月英の願いをこの時ばかりは跳ね除けた。
瞳に涙と怒りをたっぷりと浮かべ、ぷいと出て行った月英だったが、半刻もたたないうちに、機嫌を直し、出廬に賛成してくれた。そして、実家に戻したはずなのに――。
 


孔明は、目の前にいる英と名乗る人を見据えた。
月英の弟だと言っているが、妻に弟はいない。頭がくらくらしてきた。
目の前の人物こそ、男装をした妻なのだから――。



  ※


「どういうつもりですか?」
そう問われ、月英はその冷たい声に微妙に緊張した。
歓迎されるとは思ってもいなかった。付き返されるのも覚悟の上。
いろいろ言い訳を考えては来たけれど、いざとなるとすぐには出てこない。まずどう言おうとか思案していると、孔明は月英をここまで連れて来てくれた趙雲という人に礼を言い、視線で付いてくるように促した。
月英も改めて趙雲に礼を述べた後、孔明の背を追う。
しばらくその背を追いかけ続けると、ある部屋の前で止まった孔明がまだ無言のまま、中に入るように促す。
中に入ると書簡やら竹簡やら地図やらが山積みにされた乱雑な部屋だった。
それを見て、この新野城で孔明に与えられて部屋だとすぐに分かった。草庵の部屋でも同じような景色が広がっていたから。
 
「どういうつもりですか?」

再び同じ問いをされる。

「少しでもお役に立ちたいと思い参りました」

孔明が眉を顰めて、月英を見据えてくる。
その視線が鋭利な刃物のような鋭さを持って月英の胸を刺す。こんな目をされたのは初めてだ。孔明はいつも月英にあたたかい陽だまりのようなやすらぎを与えてくれるような優しい眼をしていた。
だから、こんな目は初めてだ。

「それで男装をしてここまで来たというのですか?」

月英は頷く。
一度は実家に大人しく帰った。
夫の才を見抜き、導いてくれる人が現れたのだから喜ばないといけないと。それが妻の義務だと。
けれど、我慢できなかった。
おとなしくいつか孔明が迎えに来てくれるのを待つなんて出来なかった。
そして、待つのではなく、共にありたい自分に気付いた。
そして、彼を、彼の作り出そうとしている世界を守りたかった。

「確かにあなたは武術の達人ではあります。けれど、それは机上の空論に近い。実践の経験のない上に、女性であるあなたはどう抗ってもこの群雄割拠の時代の猛将たちには適わない」

厳しい非難のこもった孔明の声に、月英は彼を睨む。目もそらしもせず真っ直ぐに見据えて。

「仮にあなたがその姿のままここに残ることになったとしましょう。ここにいるというだけでそれが皆を偽り騙し続けることです。それは主君とも裏切り続けることです」
「――・・・」
「その覚悟はあるのですか?」

刹那の沈黙の後、月英は頷きながら、「はい」と答える。
それを受け取り孔明は、その瞳に苦々しいものを浮かべる。

「もうひとつ問います」
「何でしょう?」
「あなたは女としての人生を捨てるおつもりですか?」
「えっ?」
「主君とも裏切り続けるということは、ずっと男として暮らしていくことです。つまり、女であることを捨てることであり、私の妻であることも捨てるということです」
「――っ」
「私はあなたを愛してます。」

けれど、そう言う口調に甘いものは感じられない。

「けれど、あなたが女であることを捨てるのなら私もあなたを諦めなければいけない。そして、いつかあなたの目の前で後添いを娶るかもしれない」

その言葉に月英は、一瞬だけ体の力が抜けそうになったのを堪えた。

孔明の妻であることを捨てる・・・?

そして、違う女を娶る?

一瞬理解できず、その言葉の意味を、心のうちで何度が繰り返して咀嚼する。
咀嚼し、飲み込んだ瞬間、いやだ、いやだ、いやだ。そう叫ぶ心がある。
けれど。
その一方で、数週間会えなかっただけで心が枯れていきそうになった自分がいたことを思い出す。
妻として夫の迎えを待つか。
武将として、夫でなくなった男を守るか。
けれど、私は妻として――・・・。
月英の心が震える。
息苦しい沈黙が流れる。孔明は月英を見据えて動かない。
月英も孔明のその瞳に中に宿るものを読み取ろうとするが、読み取れないことに焦れる。
焦れて月英の方から視線をそらして、ぎゅっと強く拳を握る。
そして、思いだす。会えない時間の苦しさを。
夫を思って、狂ってしまうかと思った時間を――。
月英は下唇をかみ締める。それは血が吹くのではないかと思うほど荒々しく。
事実、赤が鮮やかに滲んできたのに気付いて、月英は決心する。
あの草庵で暮らした日々までが自分の女の生だったと。それに今、惜別を込めて別れを告げよう。
ただ迎えを待つなんて私にはできない。

「分かりました。女であることを捨てます」

その言葉に孔明は鼻白んだ薄い笑いを揺らして、

「分かりました。あなたは私の別れた妻の弟ということで」

言い終わらないうちに部屋を出て行った。



 ※

「厳しすぎやしませんか?」

部屋を出てしばらくして背後からかかった声に孔明は足を一瞬だけ歩を止めたが、かまわず歩き続ける。振り返らずとも声の主は分かった。劉備配下の武将、趙雲子竜だ。
一見おだやかそうな青年で、明るく人懐っこい性格をしている。
だから、最初は噂で聞く獰猛な活躍と結びつかず、孔明は戸惑った。

「聞いていたのですか?」
「耳がいいので聞こえてしまっただけですよ」

きっと自分たちの不穏な空気を感じて気配を消して付いてきて、そして耳にしてしまったのだろと孔明は思った。

「我らが主君ならきっと笑って許しますよ。許すどころか歓迎でしょう。女兵士は他にもいる」
「そういう問題ではありません。」
「奥方はあなたを愛しているからここまで来たのでしょう?」

趙雲が孔明の脇に並んで、その横顔を伺うようにして言うが、ちらりとも孔明は趙雲を見ない。

「あなたも奥方を愛している。なら、問題はない」
「あなたなら妻を戦場に送り出せますか?」
「それが本人の意思ならば。女というだけで世界を狭められるのはとても可哀想だし、安全な場所にいるだけが幸せではないでしょう?私は武人ですから、主君のためなら命をかけられます。奥方にそってそれがあなたなのですから――」
「それが腹立たしいのです」
「えっ?」
「ここにいる皆は、殿に命をかけています。その殿を偽ろうとする妻が――」
「あなたの為なら、結局は殿に為になるのでは?」
「違います」
「そうですか?間接的ではいけないということですか?潔癖ですねー」
「――あなたは楽観主義ですね」
「そうですか?私はとても心配性なので、だから、この年になっても妻帯していないのですよ」

孔明が趙雲を横目で見やると、趙雲はにやりと瞳を歪ませた。

「私は、あなたと違って置いていく方が心配なのです。ともにあればその分、互いが今どうなっているのかと気を揉むことは減りますからね。もっともそんな女性とはめぐり会えないのが残念ですよ」

一瞬、孔明が何か言おうとしたのか唇を開いたが、それはすぐに閉じられた。それをおもしろがるように趙雲の目が揺れたので、孔明は視線をそらす。

「星彩をご存知ですね?」
「張飛殿のお嬢さんですね」
「私は、彼女の武芸の師範をしておりますので、女性である故の戦い方などは分かっているつもりです。なので、奥方を預けてくださいませんか?机上の空論と言われない程度には仕上げてみせますよ」

人の良さそうな微笑を浮かべる趙雲から孔明は視線をそらすと、

「ご自由にどうぞ。もう妻ではありませんから」

踵を返した。
その背を見ながら趙雲は、まだ月英がいるであろう部屋に向かった。



 ※

キン、と刃物同士がぶつかり合う音が響いた。
関平は、へぇやるじゃん、と心うちで呟いた。
師である趙雲が連れてきたのは、女のように華奢な奴だった。肩のあたりなど片手で抱きしめられてしまいそうなぐらい華奢なのだ。

「軍師殿の奥方の弟さんで英殿だ。ちょっと実力を見たいから相手になってくれ」

そう言われ、楽勝だと思っていたのに驚いた。
華奢ゆえとても身軽なのだ。動きも早い。だから、間合いに入られるのが怖い。
じりじりと距離をとっていると、「もう、いいよ」という趙雲の声がした。
関平も月英も思わず、「えっ」と声を合わせた。

「もう結構分かったからいいや」

趙雲は、もうふたりを見ていない。
腕を組み片足に重心をかけて、何か考えている様子なのだ。月英と関平は顔を見合わせて、それから互いに一礼して、再び顔を見合わせる。

「軍師殿の義弟だっけ?」
「はい」
「義兄さん、付き合いにくくないの?」
「へ?」
「いつも眉間にしわ寄せて考え込んでばかりいるからさ」
「それは、ここに来てからだと思いますよ。結構間が抜けてるところありますよ」

信じられない、と関平が言った時、「英」と趙雲に呼ばれ、手でついてくるように促された。
 
あの時。孔明の部屋に取り残された時。
彼が出て行った後、足の指先から頭にかけての全身の力が抜けて、その場にへたりこんだ。
すると、いつの間にか閉じていた瞼の端に盛り上がった涙が、頬をつたって落ちて、月英の髪を濡らした。
瞼を開いた。
それでも涙は、あふれ続ける。
不思議な涙だった。
心は乾いてしまっているのに。
孔明に告げられた言葉に、心はからからに乾いているはずなのに、涙が溢れる。
それを他人事のように見つめる。
涙を拭う力すら沸いてこない。
これから――。
夫でなくなった、けれど、最愛の人の傍にあるために、女である月英を殺さないといけないのだ。
そう思った途端、胸がきりきり軋んだ。
そして、まだ心は乾ききっていないのだと思いつつ、胸の痛みに頭痛がしてくる。
だって、知ってしまっているから。
あの人からもらった愛情をもう知ってしまっているから。
あの人の腕の中を知ってしまっているから。
けれど、決めたのは自分だ。
それに、私は――妻としては・・・。
分かっている。分かっているけれど、動けない。
思考と体が一致しない。
しばらく、床にへたりこんでいた。
それは決して長い時間ではなかったはずだ。

「英殿、失礼しますよ」

そんな声がした時、とても遠くに聞こえた気がしたのに、違うと分かっているのに心が飛んだ。
扉を開いて顔を現したのは、ここに来た時、自分に一番に気付いてくれた人。
趙雲と名乗った人。噂を聞いていたから内心興奮してしまった人。

そして。

その声が最愛の人に似ている人。

だから、今、ちょっとだけ期待した自分を恥じた。

月英は、どうにか足に力を込めて立ち上がり、震える手で涙を拭って、声を出そうとしたのに出なかった。出たのは嗚咽。
それに趙雲は不思議そうな顔も見せずに、

「話を聞いてました。盗み聞きするつもりではなかったのですが、耳が良すぎるようでして。今は、軍師殿も気がたって
いるのでしょう。出来が良すぎる新人はいやな目にあうものですからね」

とその頬に笑みを浮かべる。

「今、軍師殿とも話をしてきました」

ぼんやりと趙雲の話を聞きながら、この声が嫌だと思った。似ているから嫌だ。

「あなたの身を私に預けてください。もちろん、変な意味合いではなく、武人として」
「――はぁ」

涙声の間抜けた返答になってしまったのを趙雲は面白げに、

「手拭と私の胸とどちらで涙を止めますか?」

と笑う。月英は慌てて首を振る。それをまた趙雲は楽しげに声を上げて笑って受け止める。

「ここにくる途中に兵舎がありましたね?そこで明日待ってます」

と、部屋を出て行った。その背を月英はぼんやりと見つめた。




 

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