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睫毛が長いな。
孔明は、そう思いながら先ほどからずっと書を読みふけっている妻を見つめた。
兵法を学びたがっていた月英に、師から借りた書を渡した。珍しく素直に喜び、笑顔で礼を言った月英がとても新鮮だったのだが・・・。
つまらない。
いつもなら見ているだけで怒る月英だが今日は無反応。
孔明の視線すら気付いていない様子なのだ。
月英、と呼びかけようとして孔明はやめた。
読書中くだらないことで中断させられるのは、とても嫌なものだと孔明は知っている。
けれど、月英がこうも夢中になっているのを見ると邪魔もしたくなる。
自分がされたら絶対に嫌だということは分かっているのにちょっかいを出したくなる。
人間とはわがままなものだな、と孔明は思った。
普段は孔明の方が読書に夢中になり、月英に「遅い時間まで読んでいると目が悪くなりますよ」と言われても、生返事しか返さず、月英が眉をしかめるばかり。ときには、
「私は良妻ではありませんから先に休みます」
とさっさと寝室へ消えてしまうこともしばしば。
けれど、区切りがつき孔明が後を追うと、先に寝ていることはなかった。
口ではそんなことを言うけれど、実際はいつも自分を待っている。寝付けなかっただけです、とつんと澄ました顔でばればれの嘘をつく。
しかし、今は立場が逆転しているが、月英をこうゆっくりと見ることもなかなかない機会だろう。
そう思い直して月英を見つめる。
黄髪醜女だが才女。最初はそう聞いていた。
けれど、実際はなかなかの美人で、師に駄々をこねていたのを思い出す。
あの時の彼女は、所詮甘えているだけだと思った。口調からもそれが感じられた。
事実、甘えていたのだろう。
そういえば――、と浮かんだ考えに当たり前か、気付く。
いつか自分も月英からあのような甘えを含んだ声で話しかけてもらえることがあるのだろうか。
今はまだ自信がないと思いつつ伏せられた睫毛を見ていてあることに気付いた。
へぇ、と思わず声を洩らすと月英が顔を上げて孔明を見た。
「あぁ、すみません。気を反らせてしまいましたか?」
「どうかしたのですか?」
「貴方の髪の色と睫毛の色が少し違うのだな、と思ったもので・・・。睫毛の色は濃いのですね」
「――・・・そんなこと考えたこともありませんでした」
「体毛はすべて髪の色と同じだと思っていたのでつい声が出てしまいました」
「はぁ・・・」
だから、何なのだ、とばかりに不審げな顔をした後、月英はまた書に目を通し始めた。
その書はかつて孔明も読んだことがある。そっと覗き見れば、どこまで月英が読み進んだのかすぐに分かる。
改めて月英を見ていると一度集中力が途切れたせいか、月英は無言で孔明に抗議するように睨んでから、
体勢を変えて孔明に背を向けてしまった。
女性にしては背が高いとは思うが華奢な肩をしている。
頭蓋骨も小さいな、などと思っていると月英が突然振り返った。
「うるさいです」
「何も言ってませんよ」
「視線がうるさいんです!」
立ち上がって、部屋を出て行こうとするので、
「今読んだ兵法の確認をしませんか?」
と引き止める。
「確認・・・ですか?」
「ようは試験ですよ。貴方がどれくらい理解したの試験です」
孔明の言葉に月英は、口の端に笑みを浮かべると、
「受けてたちましょう!」
と挑んでくる。そんな月英に孔明も思わず笑みが浮かんだ。
孔明が紙を用意し、書に書かれていた陣形を筆で描いていくと、ぷっと月英が吹き出した。
「何ですか?」
「字がとても綺麗な孔明さまなのに、絵は下手なんですね」
「――これに関してはうまい下手はないと思いますよ」
「そんなことありませんよ。筆を貸してください」
同じものを月英が描くと、確かにゆがみなく綺麗な陣形だった。
ほらね、と月英は自慢気だ。こんなことでも孔明に勝ったと思えるのが嬉しいらしい。
「今はお絵かきの時間じゃありませんよ。兵法の時間です」
「はいはい」
くすくすと笑っていた月英だったが、孔明が出した問題にすぐさま真摯な瞳になった。
次第にふたりして議論が白熱していく。
「私ならこうします」
孔明の言葉に月英は小首を傾げる。
「確かに・・・、それは有効な手段ですが味方も裏切られたようになりませんか?」
「でも、実際は裏切っていないでしょう?」
「それが分かってくれる将ならいいですが」
「そうですね。まずは貴方がそれを分かっていてください」
「私が?なぜですか?」
「武芸も嗜む貴方ですから、いつか戦場に出ることもあるかもしれませんよ」
「その時は、孔明さまが軍師ですか?臥龍の分際で言うことだけは大きいですこと」
「けれど、現実になるとは絶対に言えませんが、ないとも言い切れないでしょう?」
「そのようなことを居眠り龍に言われても説得力がありませんわ」
月英の言葉に孔明は、クククッと喉を揺らして笑う。
何がおかしいのですか、と言う月英を見ながら、あぁ今この時間が幸せだと孔明はふいに思った。
女と兵法について語り合うことなど想像もしていなかった。
普通の女と結婚していたら絶対になかったことだろう。
こんな楽しい時間が過ごせるのも妻が月英だからだ、と孔明は幸せに思う。
嬉しそうに自分を見てくる孔明を月英は、なんだか悔しそうに睨みつける。